親父の部屋にはでかい和箪笥が四棹もある。親父はとにかく着道楽で、趣味といったら着物しかない。おふくろの着物だってこれに比べたら半分もないんじゃないかってくらいの衣装持ちだ。しかも染めも織りも特別に自分だけのためにあつらえさせるもんだから、贅沢もほどほどにしろって家族はいつも言ってる。まあ、智樹だけはきれいな着物に目を輝かせてるけど…。
親父は桐箪笥を背にして座った。普段舞台では女形だから、日常生活でも決してあぐらをかいたりしない。もう体にしみついているんだろう。
「座って」
親父の部屋に呼ばれるときは昔からろくなことはなかった。初舞台を言い渡されたり、悪事が露見して叱られたり、三味線の稽古をさせられたり。今回はいったい何だろう…最近は夜遊びも控えておとなしくしてるから怒られることはないだろうけど、まさか、さっきの智樹のことじゃないだろうな。俺は関係ないぞ。
親父はつやつやに磨かれた机の木目を見つめながら言った。
「国立後期の発表、明日やな」
「はい」
そうきたか。今夜は進路相談の二者面談ってわけだ。これはまた、気の重い話で。
「もし落ちてたらどないする?」
「そんな、縁起でもないこと言わないでください」
「そいけどあんた、受かってると思う?」
「それは…」
悔しいけれどとても思えなかった。だって、俺の偏差値は53なのにその国立大学は最低でも63ないと受からないって言われてて、しかも入試のときの俺の答案は半分以上真っ白だったから。
はっきりいってもう落ちることは確定で、明日の合格発表も見に行くつもりはなかったんだ。
俺は認めたくなかったけど言うしかなかった。
「落ちてると思います」
「そんなら、どないするか決めんと。もう高校も卒業したんやし、いつまでもふらふらは許さへんえ」
「わかってます」
実は、これからどうするかなんて俺は全然決めてなかった。普通の高校生なら、将来何になるかってことについて漠然とでも夢を持ってたり、そうでなくてもとりあえず大学行って遊びたいとか思ってるはずなんだろうけど、俺は、ほんとに全くそんなこと考えたこともなかったんだ。とりあえずバスケ部の友達と一緒の大学を受けただけ。学部だっていちばん偏差値が低いって理由だけで決めただけだし、試験勉強をがんばったりもしなかった。これってもしかしてすごい失敗だったかも…。
俺が遅すぎる後悔に身を焦がしていると、親父は、組んだ手を机の上に置いてゆっくりと言った。
「健介。もしあんたが役者になるつもりやったらな、私立に行ったほうがええと思うわ」
「私立?」
俺はもちろん国立大学だけしか受けないなんて度胸のよすぎることはしていない。いちおう実力相応の私大も受けた。滑り止めってやつだ。そこには運良く通ったんだけど、実際そこに入学するかもしれないなんて考えもしてなかった。親父はそこに行けって言ってるのか? それしかありえないよな。これからじゃ、もう願書も間に合わないだろうし…。
でも、待てよ。
「私立って、たしか京都じゃなかったっけ? なんか仏教系の…」
「なんや、お前、自分の受けた大学も覚えてへんのん? あほやなあ!」
親父は心底驚いた顔をした。腹が立つなあ、もう。その"あほ"はあんたの息子ですよ。
「だから、なんでわざわざ京都の大学に行くんですか」
「そらあんた、他が全部落ちたからに決まってるやろ」
「………」
その通りですよ。
「あんたが役者になるんかどうか、うちにはわからへん。そいけど、どっちにしてもな、今のままではあかん。大学で修行してきなさい」
「は…? 大学って修行するところなんですか?」
「それはうちも行ったことないさかいに知らんけど」
俺はこけそうになった。
「とにかくいまのあんたを他の役者はんのところにはよう預けまへん。向こうさんに迷惑かけるしこっちも恥かくしな。大学で修行して、もっと頭ようなって、たくましなって帰ってきたら、あんたの気に入った役者はんに、弟子にしてもらえるように頭下げてやるさかい」
その言い方が俺はちょっと気に触った。でも俺が眉をひそめたのを親父は別の意味に受け取ったらしい。
「役者にならへんのやったらそれはそれで、知り合いの会社にもうちが顔きくとこ仰山あるさかい就職は心配せんでもええ。けどな、いまのあんたやったら、いくら自分の息子でも自信もって推薦できひんのや」
そういう言葉をほんとに困ったように言われると、かなり傷つくんだけどなぁ。
「せやからとりあえず大学に行きなさい。あそこの大学やったらおばあ様の実家が近いさかい、下宿させてもらえるやろし」
「善興寺にですか?」
俺はめちゃくちゃがっかりした。家を出てひとり暮らしができるチャンスかと思ったら、親戚の寺に下宿だと? 監視つきで親にいちいち報告されるなんて最悪だ。いちおうひとり暮らししたいとは言ってみるけど、だめだろうなあ、金もかかるし。
「あの…、京都に住むんだったら七条あたりのマンションでひとり暮らししちゃ、だめですか?」
「え?」
親父はきょとんとした顔をした。
「あんたひとり暮らしなんてできるん?」
「できます!」
「へえー。そないなこと言い出すなんて思わへんかったわ。炊事も洗濯も掃除も全部ひとりでするやなんて、偉いやないか。やる気があるのはええことや。どうせなら七条なんて言わんと五条あたりにしとき」
ウ、ウソ〜! すげえ! ひとり暮らし、できるのか? これは京都もなんとなく楽しみになってきたぞ。
「ありがとうございます」
おもわず畳に頭をすりつけてしまった。ああ、何て卑屈な俺。
「ほなさっそく物件を探さなあかんな。不動産屋に電話しとくさかい来週あたり京都に家見にいこか。荷造りもしとかなあかんえ」
「はいっ」
俺はさっきまでと打って変わってすごく興奮してきた。なんか、明日から何をすればいいかわからなかったのが、いきなり目の前に新世界が開けたみたいな気分だ。
京都の大学に行くのかあ…。たしか俺が受けたのは、文学部の仏教文学科だったっけ。勉強の内容はつまらなさそうだけど、新しい土地でひとりで暮らすなんてわくわくする。
その夜、俺は布団の中でひとりで住む自分の家のことなんかをいろいろ考えて、いつまでも眠れなかった。京都の街を歩く大学生の自分を想像すると嬉しくてたまらない。もし彼女ができたら絶対家によぼう。その子は頼んでもいないのにスーパーの袋をかかえてきて、俺のために料理を作ってくれるんだ…それで彼女は心配そうに「おいしい?」って聞く。俺は一口食べてそのうまさに驚いて、「うまい」っていうと彼女はシアワセそうに笑って…。
がちゃりと部屋のドアが開く音に我にかえった。
「智樹…」
暗い部屋の中のちいさな人影は、肩をひくひくさせている。
「どうした? 親父に怒られたのか?」
智樹は走ってきて物も言わずに俺の布団にもぐりこんだ。昔から智樹は怖い夢を見るとよく俺の布団に入ってくることがあった。でももう夢が怖くてひとりで眠れない年でもないだろうし、ほんとに、何があったんだ? 俊くんとキスしたのを怒られたのがこたえたってわけでもなさそうだし…。
「よしよし」
腕をまわして抱きしめた。久しぶりの智樹のにおいがなつかしい。こいつも大きくなったよな…。
感慨にひたっていると、智樹が枕から顔を上げた。顔が涙でぐしょぐしょになっている。
「ねえ、おにいちゃん、京都の大学行くってほんと?」
「え? ああ、ほんとだよ」
このことはまだ俺と親父しか知らないはずなのに。立ち聞きしてたんだろうか。すばしっこいやつだ。
すると突然、智樹はぎゅっと俺にしがみついた。
「行っちゃやだ!おにーちゃん、行っちゃやだよ…」
智樹は小さな子供のように大声で泣き出した。あー、困ったな。こんなに幼児化した智樹、見たことないぞ。でも、かわいいなあ。俺が京都に行くのがそんなに悲しいのか? いつも俺のこと父親といっしょに馬鹿にしたり笑ったりしてたくせに。
「夏休みには帰ってくるよ。智樹がいい子にしてたら」
「やだ、どこにも行っちゃだめっ」
いてて。あんまりギュウギュウ背中を握るなよ。
「おいおい、もう六年生だろ。赤ちゃんみたいに泣いて、おかしいぞ」
冗談っぽく笑ってやったが、智樹はまだしゃくりあげている。俺のパジャマで鼻かむなって。
こんなに智樹が素直なのはめずらしい。こういうときに言わせなきゃ。
「智樹、おにいちゃんがいないと寂しいんだ?」
「寂しくないもん」
ぷう、と頬をふくらませていつもの意地っ張りが顔を出した。でもいまは俺のほうが圧倒的に立場が上だ。
「じゃあなんで泣いてんだよ」
「いじわる…」
俺はヒルのようにべったりくっついていた智樹を体からはがして、正面から顔をのぞきこんだ。
「俺も智樹がいないと寂しい。けど、勉強のためだから仕方ない」
本当は勉強なんか全然目的じゃないけど、俺は、かっこい兄貴になりたくてそう説明した。智樹はじっとうつむいていたが、
「おにーちゃん、智樹が会いたいって言ったらいつでも帰ってくる?」
と必死な顔で尋ねてきた。
「帰ってくる」
「ほんとに?」
俺はうなずいた。
「ほんとにほんとにほんとに?」
ああもうがまんできない! 俺はぎゅっと弟の体を抱いた。手触りから体温まですべて覚えておかないと。…もうこいつと寝ることなんてないかもしれないから。
泣き疲れてぐっすり寝入った智樹を見ながら、俺は、家族と離れるってことの意味にやっと気づいた。
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