俺が通うことになった大学は、有徳大学っていう仏教系の私大。寺と森にかこまれた閑静な建物だけど、敷地は狭くて、ほんとにちっぽけな大学だ。半分以上の学生は実家のお寺の後を継ぐために入ってきているらしい。したがって女子の割合が非常に少なく、俺の所属してる仏教文学科じゃ、全体の85人のうち女子は10人くらいしかいない。ただでさえものすごい競争率の上に、美人となると、ほとんど宝くじ状態だ。学校のなかで彼女を探すのはあきらめるべきかもしれない。
大学までの距離は五条の俺のマンションから自転車で15分くらいで、町の中心部にも比較的近い。そう、俺のマンション! 親父がひとりでさっさと決めてしまったコーポ竹田っていうそのマンションは、安っぽい名前に似合わず立派なタイル張りの外見で、24時間管理人常駐、防犯対策もしっかりしている。それに俺の部屋・201号室はなんと3LDKもあるんだ。俺にはとうてい使いこなせないでかいシステムキッチンとかがついてて、どう見ても家族向きなんだけど、親父は強引にここに決めてしまった。まったく、何を考えてるんだか。掃除の手間をかけさせようっていう気か?
入学式では、年寄りの偉そうなお坊さんが何人も説教をした。それから、男声合唱団が湿っぽい感じの仏教の歌を何曲も歌った。まわりのやつらはみんな坊主頭の男ばっかりだ。ま、俺の頭も似たようなもんだけど…。
式が終わるとさっそくというか、お決まりのサークル勧誘活動がはじまった。でもこの大学ではサークルも命がけでやるようなものはなくて、お遊びのサークルが多いみたいだ。俺は合コン同好会っていうサークルに熱烈に誘われた。ちょっと笑っちゃうような名前だけど、マジでいろんな関西圏の大学の女の子たちとの合コンを企画してるらしい。本人たちいわく、この大学でいちばん有名なサークルだそうだ。
「なあ、俺たちを助けると思って入ってくれへんかなあ。頼む〜」
四角い頭を坊主刈りにした黒ぶちめがねの先輩が俺にむかって手を合わせてきた。さすが将来お坊さんになる修行をしているだけあって、手を合わせるしぐさも慣れた感じだ。俺は自分が仏像になったような気がした。
「君やったら合コン代タダにしてもええで〜?」
「ほんとですか?」
思わず言ってしまったのがOKの意味に受け取られてしまったみたいで、俺は、一週間後の新入生歓迎合コンに参加することに決まってしまった。楽しそうだけど、人に聞かれたら答えにくいサークル名だ。親父が知ったら何て言うだろう。
今日は入学式が終わって四日目。まだ本格的な授業は始まっていないガイダンス期間中だ。でも必修の「法華経講読」って授業だけは今日からさっそく講義が始まるらしくて、俺は大教室の一番後ろに陣取っていた。必修科目だからなのか、この授業を受ける学生はかなり多いみたいだ。入ってくる学生はひとりずつ離れて座るから、広い教室がすぐいっぱいになった。まだそんなに友達とかできてないよなぁ、やっぱり…。この大学には付属高がないから、入る前から友達だったやつも少ないはずだ。
あ、先生が入ってきた。じいさんか…。若い女の先生とか、いないんだろうな。なんせ法華経の授業だからな。
「えー、では、始めます」
鶏が首をしめられたようなかすれた声だ。老眼鏡をかける手つきもずいぶん年寄りじみてる。こりゃとてつもなく眠そうだ。
案の定、俺は、5分も聞かないうちに眠くなった。意味がぜんぜんわからない上に、ちょうど昼休み前の時間帯で、開けた窓からふんわり春風とうぐいすの声でも流れてきそうな最高のお昼寝環境なんだ。これで寝るなっていうほうが無理だよ…。
どのくらい眠っていたのかわからない。急に息が苦しくなって、完全に飛び去っていた意識が軽い頭痛とともに戻ってきた。
あれ、おかしい。息ができない。…うわ、なんだこの口に入ってるのは!!
「*+=!#$"&?><!!」
俺は叫びながら思いっきりめちゃくちゃに顔を振った。授業中かもしれないなんてことは頭からすっとんでいた。だって、誰かが、眠ってる俺の口をべったり自分の口でふさいでたんだから!!
俺は一瞬で目が覚めてその犯罪者になぐりかかろうとした。が、そいつの顔を見たとたん、腕が止まった。
女かもしれない、と思ったんだ。女の子の顔に傷でもつけたら、今度はこっちが悪者になってしまう。それに女にキスされたんだったらそんなに怒ることでもないし。
その学生は、男といえば男、女といえば女で通る中性的な顔をしていた。つやつやした長い茶髪を後ろでひとつにまとめている。寺の後継者が多いこの大学の男子学生は、たいてい黒髪で坊主刈りみたいな短い髪型にしてるから、ロングヘアの男がいる確率はゼロに近い。それに、そいつは真っ赤なだぼっとしたシャツを着てて、胸があるかどうか見極めることもできない。
俺がためらってると、その学生は、いきなりニッと笑った。その瞬間俺はそいつが男だと確信した。
「このヤロー!!気色悪いことすんなよ!!」
感情にまかせて荒々しく胸倉をつかみあげた。
「すまん、つい」
なんてふざけたことをぬかした声はやっぱり男だ。なんか、無性に腹が立つ。だいたい知らない人間に寝てる間にキスするなんて、変質者のすることだ。絶対に一発は殴ってやらなきゃ気がすまないぞ。
「何が『つい』だよ。訴えるぞ!」
「そない怒らんと…」
「怒るっ!」
手を振り上げた瞬間、俺は気づいた。
大教室の全員が、振り返って一番後ろの俺に注目している。年寄り先生は目が悪くて見えないらしく、
「えー、えー、みなさんどうしたんですか?」
とマイクで聞いた。
さすがに「寝てる間に男にキスされました」なんて報告する気にはなれなくて、俺は、非常識な赤シャツ男を放って教室を出た。さっさと食堂にでも行って、混まないうちに昼飯食おう。こういうひどい目にあったときには気分転換が必要だ。
校舎を出て食堂へ向かう坂道をずんずん歩いていたら、後ろから馴れ馴れしく肩をたたかれた。俺にそんなことするヤツはまだいないはずだけど…。
不思議に思って振り返った俺の目に飛び込んできたのは、なんとさっきの長髪に赤シャツの女男だったんだ。
「何だよてめえっ! 殴られたいのか?」
あんなことをしたあとでついてくるなんて信じられない。俺はむやみに腹が立った。こいつほんとに頭がおかしいんじゃないか?
でもそいつは俺の脅しなんてどこ吹く風って感じでにこにこしている。
「まあまあ。メシ食いに行かへん? おごるさかい」
「あんた誰?」
俺はもう、腹が立つのを通り越して、この赤シャツの男が不気味に思えてきた。名前がわかったら学生課に行って相談しよう。セクハラ相談センターに電話してもいい。
「オレ? あんたはんの許婚(いいなずけ)やないか」
やっぱり、変質者だ。
俺は全速力で駆け出した。なんなんだこいつは!? 男が男にいきなりキスしてきて、しかもあとから追いかけてきてメシ食わないかだと?あげくの果てに俺を自分の許婚と勘違いするなんて…怖すぎる。さっさと逃げないとひどい目にあうかもしれない。……くそっ、追ってくるなよっ!
「待って! 健介君! 石森健介!!」
こいつ、なんで俺の名前を知ってるんだ? ますます気味が悪い。俺はバスケで鍛えた足で必死に走って、学校の外にある学生の溜まり場みたいな喫茶店に飛び込んだ。そこに行けば人がいるからいざとなったら助けを求められる。
俺に少し遅れて、赤シャツの男はぜいぜい言いながら喫茶店に倒れこんできた。すると、喫茶店を切り盛りしているエプロンをした太ったおばちゃんがそいつに声をかけたんだ。
「あらユキちゃんどないしはったん、そんなに急いで」
ウソだろ…俺は間違ったところに逃げ込んだのかもしれない。
「おばちゃん、オレちょっと、この人と話があるんやけど」
「ないです。あの、すいません、この人は誰なんですか。さっきから俺、つきまとわれてて、すごく困ってるんです」
俺は一生懸命訴えたのに、おばちゃんはにっこり笑って、
「ほなアイスコーヒーでも持ってきてあげよねー」
と奥へ引っ込んでしまった。
まずい。店の中には二人きりだ。また逃げようにも、入り口のドアの前にあいつが立っている。
また何かされたらたまらないから、しっかり警戒してあいつをにらみつけた。でもあいつはここまで俺を追いかけて走ってきたのがこたえたらしく、テーブルによりかかって肩で息をしている。
息がおさまると、赤シャツは、自分の非常識さにやっと気づいたみたいで、気まずそうに頭を下げた。
「びっくりさせてすまん。オレ、梅原幸生。知ってる?」
知ってるわけないだろ、と言いかけてはっとした。梅原?
「もしかして、幸之丞さんの…」
「ピンポーン。不肖の息子です」
「……うっそ……」
梅原幸之丞さんは、京都祇園の花街を仕切っている京舞の家元だ。花街で働くすべての芸妓や舞妓は幸之丞さんの弟子ってことになっていて、幸之丞さんは、芸妓や舞妓をやめさせる権限まで持っている事実上の祇園の最高権力者なんだ。
その息子が、この赤シャツ…? しかも俺は、幸之丞さんの長男の幸生くんはとても芸熱心でいい跡取りだという噂を聞いてる。うちの親父は祇園の出身だからそういう噂はけっこう俺の耳にも入ってくるんだ。でも目の前にいるコイツは、絶対そんなふうには見えない。茶髪でロンゲ、派手な服…こんな軽薄そうなヤツが歌舞練場で若い舞妓に踊りを教えるなんて、間違ってる。
「あんたが菱川涼之助の息子やってことと同じくらいにはほんまやで」
「………」
俺は正直言って驚いた。俺が有徳大に入学してから、菱川涼之助の息子だってことに気づいた学生はいない。何でこいつは知ってるんだ? 俺は他の御曹司と違って、稽古はいちおうしてたけど、自分の意思で将来を決められるようになるまでは舞台に出さないっていうのが親父の方針だったから舞台にはほとんど出たことがない。世間の人は俺の顔は知らないはずなんだ。
「何で俺のこと知ってんだよ」
「せやから、言うてるやん。オレたち許婚なんやって」
赤シャツ―――梅原幸生は、口をとがらせてそう言うと、汗でくしゃっとなった髪をほどいた。長い髪がかかって、女顔がモナリザみたいに見えた。
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