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一、
時は三月、ところは京都―――。
四条河原町にほど近い公立南田中学校の校庭には、こぶしの花がいまを盛りと咲いている。
三年五組の男子生徒・中川隠岐(なかがわおき)は、なるべく周りの空気を吸わないようにしながら女子トイレの個室のドアの内側をがんがん蹴っていた。もう五分近くも蹴り続けているのに、ペンキのはげた木造のドアはびくともしない。隠岐はいいかげん腹が立って、思いっきり足を振り上げて蹴りつけた。そのひょうしに、落書きだらけの上靴がすっぽぬけて、便器の中にびちゃっと落ちた。
「ちくしょう、開けろ!!この野郎!!」
しかし外はしずまりかえっている。もう五時間目が始まっていた。
隠岐はドアによりかかり、ズボンのポケットから煙草とライターを出して吸いはじめた。煙草のにおいでトイレの臭気がいくぶんまぎれる。もちろん吸っていることがばれたら登校停止処分だが、公立中学なので退学になることはない。心配する親のいない隠岐にとって、中学校の生活指導など明日の天気ほどにも気にならなかった。
そのとき、廊下の向こうからスリッパを引きずって歩く音と鼻歌がかすかに聞こえてきた。隠岐はすばやく煙草を便器に落として火を消し、大声で叫んだ。
「先生!!先生!!」
男子トイレに入ろうとしていた若い教師は、自分を呼ぶ声に振り向いた。
「誰やあ?その声は」
「中川です!!女子トイレに閉じ込められたんです!!」
「なんやて?またか?」
大学出たての青年教師は、少しためらったが、生徒を助けるためならやむをえないと決断して女子トイレに踏みこんだ。
「毎度毎度手が込んでるな…まったく誰がこんなことするんやろ」
隠岐が閉じ込められている、いちばん奥の個室のドアには、つっかい棒をしたうえにガムテープで二重三重に目貼りがしてある。
「中川、煙草吸うたんか?」
若い教師が突然聞いた。においでばれたようだ。
「いいえ。吸うてません」
「嘘ついたらあかんで。今出したるさかい、職員室までついて来い」
隠岐はそれを聞いて、残っていた片方の上靴を脱ぎ、すべらないように靴下も脱いで身構えた。タイル張りの床はみるからに不潔そうだったが、ここを突破しなければ午後の予定がだいなしになってしまう。
ガムテープが残り一枚になったとき、隠岐は息をぐっと溜めると、渾身の力で体当たりして個室を飛び出した。ドアの勢いで頭を打ってひっくりかえった教師には目もくれず、全速力で階段を駆け下り、校門を抜けて走りに走った。
四条通りの通いなれたゲームセンターの前まで来ると、隠岐はやっと歩き出した。
まともな学生なら学校で勉強しているはずの昼下がりに、中学生がひとり手ぶらで歩いている。オキシドールでばさばさに脱色した長髪をなびかせ、裾と脇を切りつめた学生服をはおり、足もとは素足にサンダルばき…みごとなまでの昔風不良スタイルだ。しかし、本人にとっては非常に残念なことに、隠岐はまったくワルに見えなかった。
体格は身長百五十センチ体重三十七キロのミニサイズ。羽二重餅のようにやわらかそうな白い頬、なだらかな細眉、くっきり切れた一重の目、かわいらしい鼻、下唇がふっくらとしたおちょぼ口…ちゃんとしたこしらえをすれば誰もが舞妓と信じて疑わないであろう容姿を、隠岐は持って生まれてきてしまったのである。
チビだの親なし子だのという言葉には小さいころから慣れっこだったが、中学に入ったとたん「女」というあざけりを受けるようになったのには耐えられなかった。少女のような容姿をできるだけ隠そうと不良を真似ているのだが、三年生になってもひげも生えず声変わりもしないので、かえって美少女が男装しているみたいで逆効果もはなはだしい。今日のように女子トイレに監禁されたり、体育のときに制服をセーラー服にすりかえられたりすることも二度や三度ではではなかった。
さて、繁華街を十分ほど歩くと、風呂帰りの舞妓たちが歩いているような閑静な昔ながらの町並みに出会う。お茶屋や料亭の並ぶ路地を入り、五十メートルほど行ったところに隠岐の住んでいる家があった。家といっても、とうの昔に親はいなくなっているので、面倒を見てもらっているだけの他人の家だ。
軒下に『広亭(ひろてい)』と屋号を書いた提灯がぶらさがっているその家は、祇園のお茶屋に舞妓や芸妓を派遣する稼業、つまり置屋をいとなんでいる。『広亭』は歴史だけは古いが小さな置屋で、今は舞妓二人と芸妓一人をかかえているだけだ。うなぎの寝床のような狭い家の中におかみの初子と三人の芸妓たちと一人の養子がいっしょに寝起きしているので、黒一点の隠岐はいろいろと気をつかわざるをえない。思春期の少年にとってはあまり居心地のよい場所とは言えなかった。
「ただいま」
サンダルを脱ぎ散らかして、隠岐はまっすぐ自分の部屋へ向かった。奥では新米舞妓の佳の子が三味線の稽古をしている。たどたどしい『宵は待ち』が、嫌なことのあったばかりの隠岐の神経をいらだたせた。
おかみの初子が隠岐の足音に気づいて奥から出てきた。家の中でも高級な着物をきちんと着こなし、日髪を結っている。舞妓時代のかわいさを思わせる童顔には、絶え間ない愛想笑いのためにできたしわが刻まれている。
「隠岐はん、おかえりやす。学校早うひけてよろしおしたなあ」
初子は隠岐を信じきっていて、隠岐がどんな不良の格好をしていても、授業をさぼったりするはずがないとたかをくくっていた。
「…うん」
隠岐はろくに義母の顔も見ず六畳の勉強部屋に逃げ込んだ。
四十過ぎて子どものいない初子は、隠岐を他人の子とは思えないほど溺愛している。誕生日に手作りのケーキを作ったり、自分のきものを仕立て直して隠岐に着せたりすることもしょっちゅうだ。そんなちょっと暑苦しいほどの初子の愛情を、隠岐はありがたいと思っていたが、同時に、何かあると思わざるをえなかった。
隠岐の母親は、祇園の佳りんといえば京都では知らない者のないほどの舞妓だった。典型的な京美人で、場を持たせるのがうまく、踊りも人並み以上にじょうずだったから、「佳りんは芸がわかる」というのでいい旦那がついた。十五で『広亭』に勤めはじめ、二十歳のときに隠岐を生んだが、産後の肥立ちが悪く、一ヶ月もたたないうちに亡くなってしまった。息子に隠岐などという少女趣味な名前を付けたのは母親である。隠岐は、たくさんの写真が残っている自分の美しい母親のことが好きだったが、女のような名を付けたことに関しては恨んでいた。
隠岐の父親については、親代わりの初子をはじめ誰もが堅く口をつぐんでいる。花柳界の人間はこういうことには口がかたいのだ。しかし隠岐にはだいたい見当がついていた。父親はきっとどこかのお偉いさんで、母を愛人にしていたが、子供ができたので捨てたにちがいない。今はもう母のことなどきれいに忘れていて、家族と一緒に幸せに暮らしているのだろう。
こういう考えに対して隠岐の心は何も感じなかった。舞妓とは、芸妓とはそういうものだと思っていたからだ。花柳界の真ん中で育った少年は、一見華やかなこの世界の女の悲しさをいやというほど知っていた。日本髪を結って、きれいな衣装を着て、舞を舞ったり三味線を弾いたりしているだけの楽しい仕事に見えるけれども、必ずしも女の幸せをつかめるとは限らない。しょせんは商売女としてしか扱われないのだ。子どもが生まれたらひとりで育てなければならない。しかもその子が母親を亡くした場合、隠岐のように置屋に養子に入ることはまれで、たいていは施設に入れられる。女の子なら舞妓の修業をさせられるから、置屋に引き取られる可能性もあるだろうが。
隠岐が何かあると思うのはそこだった。なぜ自分は『広亭』の息子として暮らしていられるのだろう?初子が自分のことをそれだけ好いているからだとまっすぐに信じることは、隠岐にはどうしてもできなかった。代々の置屋を受け継いで立派に守っている初子のような人間がどんな人間か、隠岐はよく知っている。お金なしではどんな感情も生まれないのだ。隠岐は、初子の口座に毎月けっこうな金額が振込まれているのを知っていた。初子が隠岐ににっこり笑いかけるたび、えたいのしれない父親の大きな影がさすのを感じ、隠岐はたまらなくなった。
そういうわけで六畳の砦に逃げ込んだ隠岐は、似合わない制服を一気にぬぎすてると、白足袋をはき、初子が縫ってくれた袷のじゅばんと着物を着て博多帯をしめた。およそ二分で不良中学生から置屋のぼんに変身である。
隠岐は、机のひきだしから扇子を取り出して帯にぐっと挟み込み、マフラーを巻きつけると、再び玄関へと飛び出していった。
「隠岐はん、またお稽古?」
玄関のところで初子の声につかまった。初子はきれいに描いた眉を心配そうにひそめている。
「昨日の今日どすえ。茂波先生、ご迷惑やおへんかしら」
「先生が明日もおいでて言わはったんえ」
「そんならよろしおすけど。…そんな格好で寒ないの?毛糸のコートおしたやろ」
「いらん。夕飯にはもどるさかい」
隠岐は急いで下駄をはいて玄関を出た。
「お早うお帰り」
うたうような初子の声にも振り返らず、隠岐は目的地に向かってさっさと歩き出した。
二、
隠岐が向かっているのは、人間国宝・梅原茂波の自宅兼稽古場である。
梅原茂波は若いころから天才女流舞踊家の名をほしいままにした京舞の名手だったが、八十二歳の今では第一線を退き、数少ない弟子に趣味のように教えているだけだ。ちなみに、彼女は梅原流の家元の血筋ではなく、現在京都の花街を仕切っている家元とは何十年も前にたもとを分かっている。いわば、芸術家肌の孤高の舞手なのである。
隠岐は五歳のときから茂波の稽古場に入りびたっていた。広い稽古場で昼寝したり、お菓子を食べたり、茂波や他の弟子たちが踊るのを見たり、三味線を教わったりしていると、時のたつのも忘れた。直接茂波から稽古をつけてもらうようになったのは十歳くらいからだが、舞を習いはじめると、隠岐はいっそう熱心に稽古場へ通うようになった。
隠岐は、京舞だけでなく三味線、唄、琴、笛、鼓、太鼓、胡弓などの芸事が世の中のどんな遊びよりも好きだった。特に、中学生になって、学校ではいじめられ家ではますます肩身が狭くなってくると、隠岐にとって芸事は、それがなければこの世は生きる価値がない、と思うまでのものになっていた。頭の中にはいつもうわごとのように口三味線が流れており、手はつねに舞の動きを復習している。足は無意識のうちに鼓のリズムを刻んでいる。そんな具合では学校の授業など耳に入るわけがなく、成績はどん底、高校進学はどう転んでも無理だと宣告されていた。なにしろアルファベットもおぼつかないのだ。
だが、そんなことは隠岐にとってどうでもいいことだった。地唄三曲と呼ばれる三味線・琴・胡弓は、中学三年にしてすでに祇園では先生がいないほどの腕前になっていたし、笛や鼓などの鳴物も、プロの道をすすめられている。さらに、京舞の人間国宝の秘蔵っ子としてかわいがられている。高校など行かなくても将来は好きなことをして飯を食えるのだ、と隠岐は思っていた。
人間国宝・梅原茂波の家は、門の外に「都おどり」のポスターが貼ってあるほかは、なんの変哲もないふつうの一軒家である。隠岐はチャイムも押さずまるで自分の家のようにすたすたと玄関に上がり、こんにちはーとひと声かけて台所に入った。
勝手知ったる他人の家、戸棚から茶碗を取り出し、炊飯器を開けて残り御飯を山のように盛り付け、煎茶をぶっかける。梅干しと子持ち昆布の佃煮をおかずにさらさらとかき込んだ。
「ごちそうさんどした」
茶碗と箸を流しに置いて、スキップで稽古場へ行った。
「隠岐どす、お昼食べてへんかったさかい、ぶぶづけごちそうに…」
しゃべりながらいつものように立ったまま片手でふすまを引き開けた隠岐は、中をひとめ見て、言葉が続かなくなってしまった。
稽古場には先客がひとり、茂波と向かい合っていた。
来客用の西陣織の座布団に座っているのは、隠岐と同じ年頃の、真っ白なワンピースを着た少女だった。少女は隠岐と目が合うと、はにかむような微妙なしぐさで会釈した。
白い蝶だ、と隠岐は思った。
実際、少女はひどく可憐で、ふわっとした、春の風のような風情だった。化粧をしていない若い肌は花びら餅のようにうすく血の色をすかしており、まつげや髪の毛は、染めなおしたのではないかと思うほど芯から黒く、まっすぐでくせがない。顔のつくりも、隠岐が今まで見たどの舞妓よりきれいだ。
「隠岐、お行儀悪い」
茂波に言われて隠岐はようやく我に返った。ずいぶん長いこと、突っ立ったまま客を注視していたらしい。子供みたいに立ったまま稽古場のふすまを開けて、しかも赤茶けたぼさぼさの頭をしている自分を、この白い少女はどう思っただろうか。
隠岐は頬を赤らめながら畳に膝をつき、
「おこしやす」
と頭を下げた。
少女はわずかに首をかたむけてにこっとした。その笑みはまるで遊女の微笑みのように隠岐を虜にした。
「お邪魔してます。今日から先生にお世話になります、芳田聡子です」
「…『広亭』の、中川です」
隠岐はそれだけ言うのがやっとだった。
「聡子はんがべっぴんはんやさかい驚いてんのや」
梅原茂波が枯れ葉のような顔をくしゃくしゃにしてひひひと笑った。隠岐はカッとなったが、口答えはせず、ちらっと睨むだけにとどめた。茂波の家ではいつでもずけずけと遠慮のない隠岐だが、今日は珍しく、客の前という意識がはたらいている。
「よろしくお願いします」
聡子は隠岐に向かって礼儀正しく手をついた。
隠岐は、この少女は舞妓の卵だなと判断し、それなら数ある自分の妹弟子のひとりだと思うことで、どうにか心を落ち着かせた。
「うちのほうこそ、よろしゅう…おたく、年いくつ?」
「今年で十六歳になります。四月から高校一年です」
「なんや、同い年か…お座敷しながら高校行かはんの?頭ええんやなあ」
そのとき茂波が、なぜかにやにやと笑いながら切り出した。
「隠岐、宮川町の『赤藤』知ってるか?」
「ああ…あの、まめ筋の?たしかしばらく前に芸妓はんが歌舞伎の役者はんにひかされはったいうて有名にならはったとこやろ」
「そのまめ勇さんが、聡子はんのお母さん」
「え…そんなら蓬莱屋の…!?」
「お嬢さんやで」
隠岐はまじまじと聡子を見た。そういえば、新入りの舞妓だとばかり思っていたが、素人のようにも見えるし、女優と言われればそうかとも思うふしぎな雰囲気だ。梨園のお嬢様ならばさもあろう。しかし、蓬莱屋といえば梨園の中でも五本の指に入る名門で、テレビや映画にも進出しているいまを時めく芸能人である。隠岐は姉芸妓たちによく芝居見物に連れて行ってもらうのだが、華やかな舞台で見た助六役者の、その一人娘が目の前に座っているとはすぐには信じがたかった。
「…ほんま?」
聡子はわけもなく恥ずかしそうにしながら、うなずいた。
「いま父と兄が河原座に出ているので、家族でこちらにいるんです」
「へーえ、すごいわ…ほんまもんの蓬莱屋のお嬢さんに会えるなんて」
三、
茂波は、湯のみをテーブルの上に置くと、当たり前のように口を開いた。
「ほんなら隠岐、そろそろ稽古しまひょか」
隠岐はどきっとした。もちろん稽古はするつもりで来たのだが、歌舞伎の家に生まれて踊りの良し悪しを熟知しているはずの聡子の前で舞うのは気が引ける。そのうえ、茂波に容赦なくしぼられるのを見られるのはきまりが悪い。
「うち、今日は、遊びに来ただけどすわ」
「そうか?それ、腰に差してるのはお扇子と違いますのん」
「あの、これは…」
「稽古するの、せえへんの」
茂波は隠岐の気持ちを見通してわざと言っているのに違いなかった。茂波は、芸は神の領域だが性格は悪いのだ。そのせいで辞めていった弟子たちも少なくない。
「ほな…お願いします…」
ここで断ったら二度と教えてくれないのが茂波である。隠岐は嫌だなあと思いつつも立ちあがった。
茂波は教えるときにカセットテープを使わない。昔ながらの弾き唄いである。振付の記録にも、ビデオテープやノートは使わず、すべて体で覚え込むのが茂波流だった。彼女の白髪頭の中には、何百曲もの楽譜と歌詞と振付が完璧に整理整頓されているのだ。
茂波は三味線をかたわらに引き寄せ、調子を合わせて構えた。ここの稽古場は、十畳の広さの舞台と、同じく十畳の和室が向かい合わせになっている。隠岐は総ひのきの板張りの真ん中に座って、扇子を前に置き、できるだけ丁寧にお辞儀をした。正面に座っている聡子が気になって、柄にもなく緊張してきてしまう。
「よろしゅうお願いいたします」
「よろしゅう」
隠岐がいま習っているのは『黒髪』という曲である。女の独り寝の寂しさを唄ったこんな曲を、まだ十五歳の少年が舞うのはおかしいが、数ある地唄の中で最もポピュラーな曲なので、茂波が選んだのだ。
隠岐が最初の格好をとるのを待って、茂波は弾きはじめた。
「よぉ」
チャン。
「くーろーーーかァみーイーのー」
地を這うように遅い音の流れに合わせて、隠岐はじりじりと立ちあがった。腿とふくらはぎの筋肉を使って、頭をスーッと上にひっぱられるようになめらかに、しかもスローモーションで立ちあがらなければならない。
と、ぶつりと曲が途切れ、無表情な茂波の声がそれに代わった。
「隠岐…。昨日教えたこともう忘れはったんやねえ。そこで止まったらあかんて」
「へえ、すんまへん」
「ほな最初から。よぉ。くーろーーー」
さっき止められたところを通りすぎてほっとした瞬間、低い叱り声が飛んできた。
「あきまへんなあ。目はどっち向いてるの?足も違うわ。ああ、手も違う。全部違いますな。もっぺん、最初から」
隠岐は恥かしさに身の縮むような思いだった。そのあとも「もっぺん」が何度も何度も繰り返され、隠岐の額に汗が浮いてきた。
茂波の注意に応えようと全身の神経をはりつめているうちに、聡子のことを気にしている余裕がなくなり、十分後には完全に忘れ去っていた。隠岐は自分の体をあやつることに没頭していた。視線のやり方、形と形の間をつなぐ動きの流れ、あらゆる体の部分の角度、呼吸…これらをすべて正しく実現するためには一瞬たりとも気を抜いてはいけない。ひとつの舞を舞えるようになるということは、意識しなくてもその何百何千という動作の項目を間違いなく行えるようになるということなのだ。
この自虐的とも言える行為が、隠岐は好きでたまらなかった。なぜなら、血のにじむような稽古の末に完成した舞を舞っているとき、隠岐は自分自身ではなくなっているからだ。たとえ短い時間でも、ちびで女顔の孤児ではなく、若い娘や年増の遊女になりきってその人の人生を生きることができる。隠岐は、形を忠実にやっていると何かが舞い手に乗り移ってくるという、いわば悟りの体験を、京舞を習い始めたころからもう知っていた。そして、それが快感になるのに時間はかからなかった。
「…つもオるウウ、しらーゆーきーーー。…ほな、今日はこれくらいにしとこか」
永遠にも一瞬にも思える三十分間のあと、茂波が撥を置いた。
「おおきに、ありがとうさんどした」
隠岐が疲れきった顔を上げると、稽古が始まる前と同じ格好で美しく座っている聡子が目に入った。
「聡子はん、この子、なかなか筋がよろしおすやろ?」
「はい」
隠岐はどぎまぎして畳の上に目をそらした。めったに人をほめない茂波にくすぐったいことを言われ、しかも聡子まで真面目な顔でうなずいているので、隠岐はもうどうしていいかわからない。
隠岐の動揺を尻目に、茂波は、機嫌がいいときの常で湯のみをもてあそびながら話しだした。
「来週の日曜日、二十日に、家でちょっとしたおさらいをしよう思うてますのやけどな、聡子はんと隠岐で『七福神』舞うたらどない」
「そんな、二人でやなんて…」
隠岐はどぎまぎした。『七福神』は子供の手ほどきによく用いられる曲で、隠岐にとっては手についたものだったが、聡子と二人並んで舞うとなると、考えただけでも身がすくむ。比べられるのがいやだということもあるが、ただの妹弟子であるはずの聡子の存在を意識しすぎているのは確かだった。
しかし、聡子は、隠岐の言葉を違う意味で受け取ったらしい。
「私、今日入門したばかりですから、隠岐さんがご迷惑じゃないでしょうか」
隠岐はあせって打ち消した。
「そういうことやおへんねん、うちこそ足ひっぱってしまう思て…。お師匠はん、来週の日曜いうたらあと十日もおへんえ。どうしてこないに急に決めはったん」
「河原座の千秋楽が三月二十五日どっしゃろ?せっかくやから、ご両親が京都にいてはるうちに見てもらおう思てな。どっちにしても聡子はん、四月には東京に帰らはるんやし」
「せやったら聡子はんにひとりで舞うてもろたらよろしいやん。うちは『七福神』でのうてもええで」
「何をおいやすの。あんたが人前で舞えるもんはそれしかあらしまへん」
「………」
ということで、決まってしまった。日時は三月二十日の日曜日午後一時から、場所は梅原茂波宅の稽古場、入場は無料である。客は三十人ほどしか入れないので、出演者の親類・知人だけを招待することになった。プログラムは、茂波の家の隣に住んでいるさつきちゃんという五歳の女の子が『京の四季』を舞い、そのあと隠岐と聡子の『七福神』、そして茂波のスポンサーをしている西陣織会社の女社長が『鐘の岬』を舞って、最後に茂波が『黒髪』でしめるという内容だ。すべて通しても一時間半くらいで終わってしまう、本当に小さなおさらい会である。
隠岐は翌日から毎日茂波の稽古場に通って聡子の稽古を見た。髪をきりりと上げて首筋を出し、着物姿で通ってくる聡子は、ワンピースのときと違って、ぐっと大人びてしっかり者のように見える。踊りの素養もかなりあって、『七福神』をたったの三日で最後まで覚えてしまった。そのうえ、茂波の言ったことを二回目には必ず実現するのみ込みの早さで、すっかり茂波のお気に入りになってしまっている。茂波は、隠岐にはまったく稽古をしてくれなくなった。
それでも隠岐は稽古場に行くのが楽しくてしかたがなかった。聡子は隠岐のことを「隠岐さん」と呼んで先輩扱いしてくれたし、思ったよりも気さくでよく笑うふつうの女の子だった。特に、世間では雲の上の人である家族のことを面白おかしく話す気取りのないようすに、隠岐はますますひかれていった。
そうこうしているうちに三月十六日の卒業式がやってきて、隠岐は中学を卒業した。高校も受験せず、就職活動もしなかったので、正真正銘の宙ぶらりんである。初子のつてで、いくつかのお茶屋が板場に入らないかと誘ってくれたが、隠岐にはそんな気はさらさらなかった。むろん専門学校へ行くつもりもない。隠岐の夢はただひとつ、祇園でお師匠さんをすることだった。そのためにはまずどこかへうちでし内弟子に入って修業をしなければならない。隠岐は、できれば勝手の知れた茂波のところに行きたかったが、茂波には以前からきっぱりと断られていた。
「うちは生い先短おすさかい、あんたの将来には責任持てまへん」
茂波にふられた隠岐は、梅原流の家元・梅原弥右衛門に弟子入りしようと考えたが、それも不可能だった。時代の流れに逆らいあくまでも古式ゆかしい伝統的な舞をつらぬいている茂波は、人間国宝という栄誉を得たとはいえ、梅原流の中でも異端だ。そんな師匠に手ほどきからずっと習っていたような人間を、家元が内弟子にするわけがない。隠岐は、京舞の師匠になるのはあきらめなければならないかもしれないと思いはじめていた。しかし京舞がだめでも地唄の師匠という手がある。いずれにしろまだ隠岐は十五歳、あせる必要はどこにもないのだ。
四、
おさらい会の日が来た。
隠岐は、茶髪を初子の白髪染めで黒く染めて、ほとんど白に近い薄茶色の正絹の小袖を着、まるで室町時代の能役者のようなあでやかないでたちをさせられていた。生地が初子のお流れの女物だということが気に入らなかったが、隠岐の顔立ちには、男物の地味な色目より、こういうきれいな色のほうがよく映るのだ。
最初の出し物は、五歳のさつきが舞う『京の四季』である。自分の出し物以外の曲の地方は隠岐の役目だった。三味線と唄は得意中の得意であるうえ、『京の四季』といえば舞妓がお座敷で必ず舞う有名な曲である。隠岐は、幼い子供の動きに合わせて見計らいながら余裕で弾いていた。
「色ォ香ーあらーそーおーォ、よざーくーらァや」
チツテレンツトン、のあたりまで弾いたとき、客席に小さなざわめきが起こった。隠岐はちらっと目だけ動かしてそちらを見た。そしてあやうく間違えそうになった。
周囲の人と軽く挨拶をかわしながら控えめな態度で座敷に入ってきた若い男は、まぎれもない本物の蓬莱屋の若旦那、松嶋錦之助(まつしまきんのすけ)だった。錦之助は、濃いグレーのスーツに包まれた体を座敷の端のほうへ寄せて、子供の舞を真剣に見ている。いたって地味な格好で静かに座っているだけなのだが、その存在感は並大抵ではない。妹の聡子のやさしく明るい雰囲気とはあまりにも違う、華やかさと厳しさの同居した雰囲気に、隠岐は舞台の上手で弾きながら圧倒されていた。あの人の前で舞うのかと思うと、手のひらに冷や汗がにじみ、撥がすべった。初めて聡子の前で舞ったときとはくらべものにならない緊張感が隠岐を襲っていた。
『京の四季』が終わり、ひとしきり拍手が鳴ったあと、隠岐は三味線を置いて立ちあがった。ついに自分の出番である。
稽古場の隣の控え室から出てきた聡子は、青磁のような色の、柳に蝶がたわむれている刺繍のつけさげを着ていた。もと宮川町の芸妓だったという母親の見たてだろうか。
「よろしくお願いします」
とささやいてきた。緊張しているようだったが、髪をぴしりと結い上げ薄化粧をした姿は、いつにもまして隠岐をうっとりさせる美しさである。
隠岐と聡子は、まず客席に向かってお辞儀をし、茂波からの紹介を受けた。
「下手におりますのが、五歳からうちにお稽古に来てはります、『広亭』のぼんの中川隠岐はん。上手におりますのは、そちらにお兄さんがお見えどすけど、歌舞伎の松嶋錦四郎はんのお嬢さんで芳田聡子はんどす。お稽古はたったの十日しかできへんかったのに、ほんまに覚えがよろしゅうて、『七福神』完璧に舞わはります」
客席から、ほう、と感心するような声があがった。
「ほな、ご覧ください」
隠岐と聡子は扇子を持って構えた。実は、二人で合わせるのはこれが初めてである。茂波は結局、隠岐に一度も稽古をつけることなく本番の舞台に放り出した。隠岐は、扇子を持つ手が不安で震えるのを感じながら、この十日間集中して稽古を見ていたのだし、小さいころあれだけ仕込まれたのだから体が覚えているはずだと自分に言い聞かせた。客席の隅でこちらをじっと見ている男の異常な威圧感を感じたが、自分ではなく聡子を見ているのだと思って気にしないことにした。
聞きなれた茂波の三味線が、シャン、と鳴って、曲が始まった。
その途端、隠岐は『七福神』の世界に入り込んでいた。布袋、弁財天、福禄寿…ひとりひとりの神様をシンプルな動きで演じ分けていくこの舞は、基本がたくさん含まれているので手ほどきに使われているが、本当は非常に難しい曲なのである。何もわからず動きだけをまねていた子供のころと違って、隠岐はいま、その難しさを痛感していた。基本を丁寧に舞いながら、なにげない視線のやり方や細かい間でその神様"らしさ"のニュアンスを出していかなければならない。そのうえで、全体的にめでたい正月の雰囲気が醸し出されていなければならないのだ。
隠岐は、観客の存在も、隣に聡子がいることさえも忘れてただひたすら舞った。舞いおさめて、拍手が来ても、まだその余韻の中にいた。
出番が終わってみると、ただのおさらい会にすぎないのになぜこんなに気負ってしまったのだろう、と隠岐はふしぎに思った。きっと、聡子とかその兄とかいう日ごろつきあいのない階級の人と関わったせいだろう。だがもうこれでさようならだ。河原座の千秋楽が過ぎたら、聡子たちは東京に帰って、自分は祇園に残る。遠くから舞台姿を見ることはあっても、二度とプライベートで会うことはないに違いない。
聡子と会えないのは身を切られるように寂しいけれど、しょせん、蓬莱屋のお嬢様と無学な置屋の養子とでは身分違いなのだ。かなう恋ではないと初めからわかっていた。
最後の茂波の舞が終わり、客たちが帰って行った。
錦之助は引き留められ、残ってお茶を飲んでいくことになった。聡子はその用意をしに台所へ行き、茂波は着替えのために自室へ引っ込み、隠岐は稽古場で三味線を片付けていた。錦之助と二人きりになるのは何となく気詰まりだったが、客を独りでほっておいて逃げ出すわけにもいかない。
「お退屈どしたやろ」
「いや、けっこう楽しかったですよ。中川君」
いつのまにか名前を覚えられている。
錦之助の顔は、あらためて見ると、テレビで見るよりきりりと細面で、目のあたりが聡子にそっくりだった。口元は人懐こそうに笑っているが、眼光はするどい。人を恐縮させるオーラも相変わらず発散し続けている。
隠岐は、自分の舞の話題に触れられたくなかったので、さりげなく話を変えた。
「いま、河原座に出ておいやすんどすか」
「ああ、夜の所作だけね。"月三題"のひとつで『夕月船頭』に。清元の」
『夕月船頭』というのは、江戸の船頭の粋ときっぷをあらわした軽妙洒脱な曲である。すずしい二枚目の錦之助がちりめん浴衣を着流して船頭を演じたらさぞ似合うだろう、と隠岐はすなおに思った。
「そうどすか。いっぺん見に行きとおすわ」
「じゃあ、明日にでも来れば?桟敷あけておくから」
軽い口調を、隠岐は社交辞令だと受け取って、笑いながら辞退した。
「そんな、もったいのうおす」
すると、錦之助の顔がすうっと真面目になり、目の光が増した。
「ねえ、中川君」
「へえ」
「おれと一緒に暮らさないか?」
錦之助は、まるでプロポーズのような言葉を、いきなり、落ち着きはらった声で言った。
「…は?」
隠岐はぽかんと口を開けたまま、錦之助の表情をじいっと見た。そして、彼の瞳の中に静かな自信と情熱が燃えているのをみとめた。錦之助は真剣なのだ。
「冗談よしとくれやす、お兄さん。どないしはりましたん?…あ、そや、ちょっとうち、お茶持ってきますよって、ちょっと失礼します」
ひきつった笑いでごまかしながら急いで稽古場を抜け出して、台所に逃げ込んだ。
こんなことはかつてない。スーツの背筋をぴんと伸ばして座っている生白い顔の男に対する恐れが、隠岐の中でどんどん膨らんでいった。その男は正体不明な力で隠岐を別世界につれて行こうとしている。魅入られそうになって逃げてきたが、台所までたどりついてもまだ胸のどきどきがおさまらなかった。
台所では、聡子が茶菓子をひとつずつ懐紙にのせる作業をしていた。隠岐は聡子をつかまえるやいなや、ささやき声でどなった。
「あんたの兄さん、変態やで」
聡子は突然の告発に驚くかと思いきや、ころころといかにも楽しそうに笑い出した。
「何か言われたんですか?」
聡子は、兄の変態的所業には慣れているようだった。
「"何か"やないわ、ほんまに…」
「教えて」
小首をかしげて目をのぞきこんでくる聡子のかわいらしさについ負けて、隠岐は声をひそめて言った。
「一緒に暮らさへんか、やて」
聡子は笑顔を消して真面目な顔にしてみせ、深刻な声色で隠岐をからかった。
「それは…たぶん本気ですね」
隠岐は台所の椅子にへたりこんだ。聡子はくっくっと笑いながら、たすきをはずしてたもとに入れ、
「さ、これ持って行くの手伝ってください。私お茶持っていきますから」
と菓子の盆を持ち上げた。
「うち、もうあの人の前に行く気せえへんわ。聡子ちゃん、あんな兄さんとよう一緒に暮らせるなあ」
ぶつぶつ言いながらも隠岐は盆を受け取り、聡子と一緒に重い足取りで稽古場へ戻った。
五、
テーブルの上においしい玉露と京菓子が並び、錦之助と茂波、聡子と隠岐がそれぞれ向かい合って座って、あらためて挨拶をかわした。
「茂波先生、今日はたいへんけっこうなお会に聡子のような未熟者を出させていただきまして、ありがとうございます」
「なんにもけっこうなことあらしまへんえ。もっとちゃんとしたとこで舞わはったら、よろしおしたやろけど。聡子はんはほんまにようできたお嬢さんどすな」
「とんでもないことで…わがままでお困りになったでしょう、普段甘やかしすぎているものですから」
「いやいや、こちらこそ隠岐なんぞと付き合わせてしもてえろうすんまへんどした。この子ときたら、ろくに稽古もせんと…」
自分が稽古してくれへんかったくせによう言うわ、と隠岐は腹の中でぼやいた。
「いいえ、隠岐君の踊りには感心しました。隠岐君は地唄もかなりされるんだね」
急に錦之助の強いまなざしで顔を見つめられ、隠岐はうろたえた。
「へえ…舞よりもそっちのほうが得意どすねん」
「それはすごい。いまどきこんな人はめずらしいですよ。先生も将来がお楽しみでしょう」
と、錦之助は心からそう思っているらしい言い方で隠岐をほめた。さすがに役者はしゃべるのがうまいなあと隠岐がひそかに感心していると、茂波が今度は演技でもなんでもなくずけずけと答えた。
「何を楽しみなことがおますかいな、この子は高校にも行かんと家でぶらぶらしてますんどすえ。なんの役にもたたへんわ」
隠岐は腹の立つのをぐっと抑えて干菓子をひとつ口にほうり込んだ。茂波の言っていることは事実ではあるが、本当のことを言われるほど腹の立つことはない。
しかし、
「隠岐さんくらい才能があったら、高校なんて行く必要ありませんよ」
と聡子が笑顔でフォローしてくれたので、隠岐の機嫌はいっぺんに直った。
「うちは聡子ちゃんみたいに頭ようないさかい」
「私、頭よくなんかないですよ。うちの学校はエスカレーター式だから誰でも大学まで行けるんです」
「ふうん、聡子ちゃん大学いくん。女優さんにならはるんやないの?」
「そんな、私が女優なんてなれるわけないじゃないですか…隠岐さんはこれからどうされるんですか?」
「うちはまだ決まってへん。ほんまはお師匠はんの内弟子になりとおすのやけど、あかんて言わはるし。地唄の菊本先生の内弟子になろうか思てる」
「菊本はんはやめとき。芸がまずい。あんたの腕が腐るえ」
茂波がにべもない口調でこきおろした。芸に関してはおそろしく高い基準でものを考える人なのだ。
そのとき、おもむろに錦之助が手を膝に置き、姿勢を正した。
「あの、茂波先生、つかぬことをお伺いいたしますが…隠岐君を私に預けていただけないでしょうか?」
そら来た、と隠岐は首をすくめた。何を言われたところで断ればいいだけの話だが、錦之助の確信にみちた申し出をはねのけるのはかなり骨が折れそうだ。錦之助の態度からはどんなことでも最後には自分の思い通りにしてしまう押しの強さがひしひしと伝わってくる。
茂波は、錦之助の唐突な申し出に、ほんの一瞬面食らったようだったが、すぐにおもしろがっている表情に変わった。
「それは、部屋子にする、いうことどすか?」
「はい。私が責任を持って一人前の役者にしてみせます」
これには聡子も驚いたようで、あわてて兄をひきとめた。
「ちょっとお兄さま、いきなりそんなこと、失礼じゃないの」
「いきなりじゃないよ。聡子に隠岐君の話を聞いたときからずっと考えをあたためていたんです。父や母にももう話を通してありますし。今日実際会うまでは、はっきり言っていささかの不安はあったんですが、思った以上に素質のある人で…」
錦之助は隠岐を見てにっこり微笑んだ。隠岐は目をそらし、警戒心をいっそう強めた。
「これはぜひ東京に連れて帰りたいと」
茂波はさして感激した様子もなく、普通に言った。
「よろしおしたやないの、隠岐、片付き先が見つかって」
「…嫁に行くような言い方せんといてください!」
「同じことどすがな」
隠岐はぐっと言葉につまった。確かにその通りだ。部屋子になるということは、四六時中師匠について身の回りの用事をし、その合間に稽古をしたり舞台に出たりしながら、妻としてのすべてのつとめを果たすということだ。
歌舞伎の世界は、その発生段階から色事の世界だった。初めは遊女の顔見世として演じられていたが、そののち幕府の禁止令が出て、女が少年に変わった。それもまた禁止され、男だけの芸能になっていまに至る。自然、幕内には男色の者が集まり、芝居小屋のまわりは悪所として発展した。明治時代まで、役者と男娼は同義語だったのである。現在でも、役者どうしができた切れたの騒ぎや、ひいきの客の接待などが日常的に行われている。特に女方の役者は、体を変えなければ一人前の女方の芸を完成させることはできないと言われているほどだ。
隠岐は、歌舞伎とつながりの深い祇園に生まれ育ったので、そういう幕内の事情もしばしば小耳にはさんでいた。自分が歌舞伎役者になって、客の機嫌を取ったり恋の噂の的になったりするなんて、考えるだけでもぞっとする。錦之助に弟子入りするのは、隠岐にとって、苦界に身を売るのと同じことのように思われた。
「もちろん親御さんにはご挨拶にうかがわせていただきますし、了解していただくまで誠意を持って説得いたします」
そう言う錦之助は、本当に、結婚を真面目に考えている青年のようだった。 隠岐は、このあたりできっぱり意思表示をする必要を感じた。居候という立場の隠岐にとって、養母の初子を説得されて外堀を埋められては非常に困る。
「親やのうて、うちが了解してへんのどすけど」
錦之助は、いきなりきつい調子で言い出した隠岐を見て、眉をわずかに上げて微笑みながら、
「どうして?」
と聞いてきた。
隠岐は錦之助の甘すぎるマスクをきっと見据えた。
「どうしてって、当たり前どすがな。いきなり役者になれなんて言われて、へえほんならそうしまひょか言うとでも思てはりますのん?蓬莱屋はんか何か知りまへんけど、京都ではそないなやり方通用しまへんえ」
「そう…。役者のどこが嫌いなの?」
「そんなん、お兄さんの前で言えしまへん」
正直に答えなければならない義理なんてどこにもない。
「気をつかわなくていいよ。おれだって役者は大嫌いだ」
錦之助は笑いながら言った。しかし隠岐は思わず錦之助の顔を鋭く観察してしまった。たったいままでにこやかで明るかった目の色が、「大嫌いだ」と言う一瞬、救いようがないほど暗く沈んだように見えたからだ。この人は役者が心底嫌いなのだ、と隠岐は直観的に感じた。蓬莱屋の御曹司として生まれ、人気も実力も兼ね備えた押しも押されもせぬ花形役者が、なぜそんなことを思うのだろう―――隠岐は強い興味をひかれた。
「そんならどうして役者はんにならはったんどす?」
「それしか能がなかったからかな」
これは軽口だった。錦之助だって本当のことを言う必要はないのだ。
「うちは、…もうたくさんどすねん。本当は女やろとか舞妓はんみたいやとか、おかあさんの着物が似合うとか、クラスでいちばん高い声が出るとか。うちは、男らしい仕事がしとおすのや。役者いうたら、女形はずっと舞台で女の役して、普段でもそういうふうにしゃべらはったりしはるやろ。立役はんも、なんとのう優しいて、なよなよっとしといやすやん。うちは絶対そんなふうになりとおへん。もっと男らしゅうなりたいんどす。それにうち…お兄さんの奥さんに…なる気もないし」
どうしても断らなければという思いから、つい本音が出てしまった。聡子の手前、さすがに売春のことまでは言えなかったが、錦之助にはこれで十分にわかっただろう。
「じゃあ、地唄の師匠は男らしいのか?」
「それは…」
隠岐が言いよどむと、錦之助の顔つきが変わった。怖くはないが、いままでの柔和な笑みが跡形もなく消えている。
「役者を甘く見ないでほしいなあ。隠岐君は、役者は男らしくないと思ってるみたいだけど、女形は、男でなければそもそも成立しない。女がやったら女形じゃないだろう?それに、何十キロもの衣裳と鬘をつけて踊ったり芝居したり、男でなきゃあとてもできない。女形の体は立役よりもよっぽど筋肉がついてるよ。おれは、女形は世の中でいちばん男らしい職業だと思ってる」
錦之助は、愛想のいいお役者の仮面を脱ぎ捨てて、隠岐を叱るように、諭すように、熱っぽく語った。その表情はにこやかなときよりもずっと魅力的だと隠岐は思った。
「立役だって、男が演じる女形を相手に男役を演じるんだから、ふつうの男よりずっと男らしくなければ相手役が可憐に見えない。立役は究極の男らしさがないとつとまらないんだ」
錦之助はそこまで言うと、ふたたびにこっと笑った。
「役者になってみないか?きみの身はおれが守るから」
じっと自分にそそがれている熱い真剣なまなざしに、隠岐はほとんど酔いしれていた。こんなにまっすぐに自分を欲されたのは生まれて初めてだ。
「お兄さまったら、キザねえ」
聡子が呆れたように言うのが聞こえる。
隠岐は聡子の顔を見て正気を保った。一生を決めるかもしれない大事な局面なのだから、もっとしっかりしなければ…。そんなに簡単に大事な体を売り渡してはいけない。
「いますぐにお返事はできまへん」
「もちろんすぐにとは思ってないよ、まずは御両親と相談しないといけないし。でも、おれが東京に帰っちゃったら話もできないから、二十六日までに、イエスかノーかだけ、返事をくれるとありがたいんだけど。…急がせてごめん」
「二十六日どすか」
隠岐は、役者になるという夢のような話が急に現実感をもって迫ってくるのを感じた。もし錦之助の内弟子になれば、大好きな芝居を毎日のように見られるし、美しい衣裳を着られるし、踊りの稽古に没頭できるし、聡子とひとつ屋根の下に暮らすこともできる。心配していた身売りのことについても、錦之助は守ってくれると言った。そしてなによりも隠岐の心を役者にかたむかせたのは、ひとりの人間が自分に執着しているという事実だった。
茂波は二人の話を聞きながら無遠慮にぼりぼりと干菓子を食べていたが、全部食べ終わると、茶をすすって、うまそうにため息をついた。
「隠岐、もう決まってんのやったら、お待たせせんとさっさと返事しよし」
「せやから決まってへんて…」
隠岐は茂波の勘の鋭さにどきりとしながら嘘をついた。
「あっそうだ、隠岐さん、明日いっしょに河原座に行きませんか?そしたら楽屋の様子とかも見られるし。ねえ、いいでしょ、お兄さま」
聡子はいつになくはしゃいでいた。聡子にとっては、自分の友達が兄の内弟子になって歌舞伎の世界に入るというなりゆきは、ちょっとしたイベントなのかもしれない。
「夜の部だったら"ほ"列の二十五と二十六があいてる。でも、あまり隠岐君をうるさがらせるなよ」
「はい、わかってます」
隠岐が返事もしないうちに、行くことに決まってしまったようだ。だが隠岐も、錦之助の『夕月船頭』を見てみたいと思っていたので、べつに迷惑ではなかった。それどころか、聡子と二人きりの観劇である。隠岐の胸はいやがおうにもときめいた。
六、
その日の夜、義理の母の初子は、隠岐の話を聞いて茶碗を取り落とすほど驚いた。そしてショックを隠しきれない様子だった。
「よりによって隠岐はんが歌舞伎役者にねえ…人生何があるかわからへんもんどすなあ」
隠岐は反対されるかと思ったが、結局初子も茂波と同じように賛成してくれた。『広亭』の芸妓たちも、まるで自分のことのように、
「すごいわあ隠岐はんは。うちら、やっぱり普通のぼんとは違う思てたんえ」
と喜んだ。もっとも、佳の子たちの場合はミーハ−なので、隠岐があの松嶋錦之助に目をつけられたということに興奮していたのである。河原座へ招待されたと話すと、初子はさっそく羽織にアイロンをかけてくれて、切符代も夕食代も気前よく出してくれた。おまけに錦之助に土産をといって道明寺の箱を風呂敷に包んで持たせた。初子は自分も挨拶しに行くと言い張ったが、隠岐は、向こう様に迷惑だからとあきらめさせた。錦之助たちは、まだ、隠岐が養子だということを知らない。そのあたりの事情はいずれゆっくり話さなければならないが、楽屋に押しかけてするようなたぐいの話ではないだろう。
さて、次の日の河原座は、期待にたがわぬ面白さだった。
隠岐は三時半に茂波の家の前で聡子と待ち合わせた。上品なピンク色のスーツを着た聡子は、年相応の、かがやくばかりの愛らしさだった。縞の大島紬に揃いの羽織という姿の隠岐と聡子が連れ立って歩いていると、道行く人々は、おやまあとにこにこして振り返った。
「お雛様みたいやなあ」
という声がどこからともなく聞こえてくる。隠岐は、聡子に聞こえやしなかったかと赤面した。鴨川沿いの桜が五分咲きに咲いて、川面に映る光がきらきらと当たっている。隠岐は、まるで聡子のようだと思った。聡子の笑顔は本当にまぶしくて、まっすぐ見つめるのが恥かしいくらいだ。隠岐は足も地につかないほど浮き立っていた。
幕開きの芝居は『寺子屋』という浄瑠璃もので、隠岐は眠気におそわれうつらうつらしてしまったが、主役の松王丸を演じる聡子の父・松嶋錦四郎の美しさには感心した。芝居の後の幕間に、予約しておいた弁当を聡子と一緒に食べたあと、中幕の舞踊"月三題"を見た。一題めが長唄『汐汲』、二題めが常磐津『月』、そして最後が錦之助の清元『夕月船頭』である。
隠岐は舞台にひきつけられた。特に、女形の代表的な舞踊のひとつである『汐汲』には、あの舞台で踊ってみたいと痛烈に願わせるものがあった。いままでは歌舞伎を見て自分もやりたいなどと思ったことはなかったのに、ふしぎなもので、可能性が見えたとたんに欲が出てきたのだ。天女のようなきらびやかな衣裳と、長唄の浮き立つようなリズム感が隠岐の心を高揚させ、思わず体が動いてしまいそうになるのを抑えるのに苦労した。
『月』もしっとりとしたいい曲だった。隠岐は茂波が演ったらどうなるだろうかと想像したが、うまくいかなかった。地唄舞と役者の踊りは世界が違いすぎる。
隠岐はふと不安になった。ストイックな地唄舞しか舞ったことのない自分が、演技の要素を多分に必要とする、間の早い歌舞伎舞踊をはたしてうまく踊れるのだろうか。聡子にそう言うと、何を言ってるんだという顔をされてしまった。
「大丈夫ですよ。私だって『七福神』踊れたんだから」
とんでもない理屈である。聡子には、隠岐が京舞と同じように歌舞伎舞踊も踊れるということはわかりきったことのようだった。これはもう必死で稽古するしかない。
そして、錦之助の『夕月船頭』―――。
隠岐はすっかり惚れ込んでしまった。ため息が出るほど粋で、いなせで、格好良い。肩に蓬莱屋の紋を染めた純白のちりめん浴衣の裾をきゅっと帯に挟み上げ、手拭い鉢巻をしめ、さおをあやつる姿のいいことといったら…。ちょっとしたしぐさのすべてに味があり、大川端の情緒を醸し出している。文句なしに江戸いちばんの色男だ。
隠岐の目には、錦之助が他の二曲を踊った二人と段違いにうまいことがはっきりとわかった。何気ないような動きも実は細かく計算しつくされている。それになにより、踊りの基本がみっちり叩きこまれている。稽古の量が違うのだ。
隠岐はいま見たばかりの舞台の興奮を胸に、聡子に連れられて楽屋へ行った。
小道具を入れた柳行李が積み上げられているほこりっぽい狭い通路をくぐると、そこはもう舞台裏だ。こしらえの途中の顔を真っ白に塗った役者たちが、すれちがうときみんな聡子に向かって挨拶するのが隠岐には面白かった。
奥から三番目が錦之助の楽屋である。入り口には、『夕月船頭』の衣裳を真似たものらしい、白いちりめん地に藍で蓬莱屋の紋が染め抜いてあるのれんがかかっている。
「聡子です、入ります」
「お邪魔します…」
ぞうりを脱いで上がった楽屋の中は、贈り物の胡蝶蘭がところ狭しと飾られ、座布団や湯のみが畳の上に置きっぱなしになっていた。錦之助は鏡台の前で両肌を脱ぎ、化粧を落しているところだった。
「散らかってて悪いね。さっきまめ蝶さんたちが来たもんだから…聡子、そこらへん適当に片付けて」
「はーい」
錦之助は鏡の中から隠岐に微笑みかけた。
「おもしろかった?」
「へえ、おおきに。あんなええ席で観させてもろて…」
「もっといい芝居だと良かったんだけど、今月はろくな役者来てないから、眠かっただろ」
「そないなことあらしまへん。錦四郎はん、ほんきれいどしたえ」
「ああ、そう」
父親をほめられたのにも関わらず、錦之助はそっけない返事を返した。役者の世界はたとえ親子でもライバル意識を持つものなのか、と隠岐は思い、すぐさま言い足した。
「そいけどうちは、踊りのほうが好きどす。『夕月船頭』、ほんますてきでした。『汐汲』も」
「『汐汲』か。あれは隠岐君が演ったほうがいいな」
「またお兄さんはおだて上手やわ」
「本音だよ。いくら歌舞伎が芸の世界でも、七十すぎのじいさんの『汐汲』なんて、見せられてるお客さんが気の毒だ。あ、そうだ。いつか親御さんの都合のいい日を聞いておいてくれる?これホテルの電話番号だから」
錦之助に手渡されたのはマッチ箱だった。
「午前中やったらいつでも家にいます。うちは置屋どすさかい」
「そう。じゃ明日うかがってもいいかな」
「…お兄さん、本気どすのやね」
錦之助が隠岐の方に向きなおった。まだ白粉の跡が残る素顔は、さっきまで演じていた船頭の余韻をとどめて、ぞくりとするほどの男の色気を匂わせている。隠岐は、女なら一撃必殺であろうその視線が自分ひとりにまっすぐ向けられているのが気恥かしかったが、錦之助の顔から目をそらさなかった。
「本気だよ。…実は、きみを部屋子にってことは一世一代の決心なんだ。弟子をとるのは初めてだけど、ひとりの人間の人生を預かる覚悟はできてる。嫌だと言っても一生面倒を見るつもりだ」
錦之助の言葉は淡々としていたが、心は十分に伝わった。隠岐は自然と両手をついた。もう意地を張る気は失せていた。天下の松嶋錦之助がこれだけの誠意を見せているのだから、こちらも真心で応えなければならない。
「末永う…よろしゅうお願いいたします」
こうして、中川隠岐は、松嶋錦之助の部屋子になったのである。
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