京鹿子恋山路 入門編

名古屋あき

七、

 隠岐が羽田空港に降り立ったのは、三月三十日の正午だった。
 空港の到着ロビーには錦之助がじきじきに迎えに来ていた。聡子も一緒だ。
 黒ずくめの服に身を包み芸能人らしくサングラスをかけた錦之助は、かなり周囲の注目を集めている。聡子がこっちに手を振ってくれなかったら、隠岐は気後れして錦之助に近づくことができなかっただろう。
「隠岐さん、初めての飛行機どうでした?」
 聡子は京都にいたころと変わらず気さくに話しかけてきた。隠岐は少しほっとした。
「うん、平気やった」
 隠岐は錦之助を見上げて頭を下げた。
「お世話になります」
 錦之助は軽くうなずいた。にこりともしない。あの愛想の良さはやはり仮面だったのだ。分かっていたはずなのに、隠岐はがっかりした。
「家に着くまでお昼ごはん我慢できますか?」
「うん」
 三人はエレベーターで駐車場に降り、黒のベンツに乗り込んだ。錦之助の運転は慎重かつ軽快で、高速道路をすいすい飛ばし、ちょうど一時間半後に三軒茶屋のインターを降りた。
 駅から通りを二、三本裏手に入った静かな住宅街にそびえたつ二十階建ての高級マンションの一階が、松嶋錦四郎一家の事務所兼稽古場兼自宅である。地下駐車場に車をとめ、大理石のエントランスで鍵穴に鍵をさしこむと、セキュリティシステムが解かれて自動ドアが開いた。
 大理石の廊下に三人の靴音が響く。セレブリティの住いとなることを前提として建てられたこのマンションは、高級感を最も大切にした設計がなされている。一つ一つの部屋の間取りが、住む人のニーズにあわせてデザインされていることも特徴だ。芳田家は職業上どうしても稽古場を作らなければならないため、踊りの稽古をしても階下に迷惑がかからないよう1階にあるのだ。
 先頭を歩いていた錦之助は、長い廊下に一つしかない入り口の前で止まった。そこが芳田家の表口らしいが、ヨーロッパ調の木製のドアといい、ローマ字でYOSHIDAと書かれた表札といい、とても歌舞伎役者の家とは思えない。
「ただいま帰りました」
 錦之助が大きな声で言いながらドアを開けて中に入った。
「お邪魔します」
 玄関に入ると、隠岐はもっと驚いた。マンションにしては天井がずいぶん高い。壁はしみひとつない真っ白な漆喰、床はぴかぴかに磨かれたフローリング…非常に明るくて開放的だ。
 家に見とれていると、明るい茶色の髪と眼をした大きな男の人が出てきた。舶来の部屋着をいやみなく着こなして、まるで外国の映画俳優のようだ。彼こそが、錦之助と聡子の父親で当代一の人気役者の松嶋錦四郎である。隠岐は大スターを目の前にしてかたまってしまった。
「やあやあ、君が隠岐ちゃん?うわあ本当だ、かわいいねえ。ささ、まずは上がって」
 錦四郎は屈託のない笑顔でうながした。『かわいい』などという言葉も、隠岐を少しも不愉快にさせなかった。おおらかで輝きがあって、太陽のような人だ。
 錦四郎の後ろから、いかにも奥様という感じの、レースのエプロンをした美人がお辞儀をしてきた。
「裕之の母の朝子です。どうぞよろしく」
 錦之助の本名は裕之というらしい。
「中川隠岐どす。こちらこそ、よろしゅうお願いいたします」
「あらなつかしい。祇園の方なんですってねえ」
「へえ」
「娘たちから聞いてるかもしれないけど、私、昔宮川町にいたのよ。いろいろお話しできるわね。楽しみだわ」 
 錦之助はさりげなく母をさえぎった。
「荷物はおれの部屋に置いてある。片付けは後でいいから、とりあえず昼めしだ」
 隠岐はスリッパをはいて錦之助の後をちょこちょことついて行った。玄関を上がって廊下を左に曲がるとドアが二つある。一つは事務所の入り口、もう一つはプライベートルームの入り口だ。錦之助は右手のドアを開けてさっさとリビングに入り、すでに食事が並べられているテーブルを通りすぎて、さらに奥のドアを開けた。ドアの向こうにはまっすぐに廊下が伸び、両脇にいくつかの部屋が並んでいる。
「隠岐、ここが風呂と洗面所で、隣がトイレ。こっちの手前がおれの部屋で奥が聡子、突き当りが両親の部屋。覚えた?」
「へえ」
「その"へえ"っていうのはやめなさい」
「へえ……はい」
 広すぎるような全面鏡張りの洗面所で、隠岐は錦之助と一緒に手を洗った。
 食堂に戻ると、もうみんなテーブルについていた。花柄のクロスがかかったダイニングテーブルには、ちらし寿司の寿司桶が真ん中にどーんと据えられ、鯛のアラの吸物や煮しめなどが並んでいる。
「さあどうぞ、遠慮しないでね。あ、お寿司取ってあげる」
 隠岐は聡子の好意に甘えた。手が届かなかったからだ。
 錦四郎は上機嫌でビールをあけ、しきりに隠岐に話しかけてくる。
「いやあ、よくうちの錦之助なんかの嫁さんに、失礼、内弟子に来てくれたねえ。ほんとにありがたい」
「うちこそこないな立派なお宅に置いていただいて……」
「何を言ってるんだよ、いい子だなあ。いくつなの?」
「今年で十六になります」
「なんだ聡子と一緒か。へーえ、ずいぶんかわいいよなあ」
 しかし錦四郎の調子が上がっていくのと反比例して、錦之助が冷めきっていくのが隠岐にはわかった。河原座の楽屋で錦四郎をほめたときのそっけない態度といい、この親子、どこかおかしい。それともただの反抗期なのだろうか。
 ふとよぎった疑問を、朝子のしっとりした声がぬぐい去った。
「裕之も聡子も、あなたが来てくれるっていうのでこの一週間浮かれさわいで大変だったのよ」
「やめてよお母さま、浮かれてたのはお兄さまだけでしょ」
 聡子は頬をピンクに染めてきゃっきゃっと笑った。
「ご迷惑おかけして、すんまへんどした」
「まあ聞いた?聡子、同い年とは思えないわね。隠岐さんを見習いなさい」
「なんか、これからそればっかり言われそう」
 ちらし寿司は穴子とカニが混ぜ込んである豪華な味で、吸い物もだしがきいている。隠岐は幸せな気分で箸を口に運んだ。
「隠岐さんは、祇園の何ていうところの息子さんなの?」
「置屋の『広亭』の養子どす。母は佳りんいう芸妓で。おかみさん、ご存知どすか?」
「えっ、あなたあの佳りんさんのぼっちゃん!? 」
 朝子の椅子から立ちあがらんばかりの驚きように、隠岐のほうがびっくりしてしまった。
「さっきから似てると思ってたのよ、そっくりだものねえ。生き写し」
「そ、そうどすか」
「へーえ……佳りんさんの、ねえ……」
 そのときなぜか朝子は錦四郎の方をちらりと見やった。
 どういう意味か考えるひまもなく、錦四郎が、
「ほれ裕之、何かしゃべらなくていいのか?せっかく隠岐ちゃんが来てくれたってのに」
 などと言い出したので、隠岐は、錦之助がますます不機嫌になってしまうのではないかとあせった。
「これからいつだってしゃべれるのに、何もいましゃべることはないでしょう」
 錦之助は醒めた声でそう言っただけだった。心の中をうかがい知ることはできない。
 めいっぱい食べた後に案内された錦之助の部屋は、ペイズリー柄のカバーがかかったイタリア製の特大ダブルベッドが大部分を占めていた。片方の壁はガラス戸つきの本棚でうめつくされており、台本とビデオテープがぎっしり並んでいる。もう片方の壁は一面クローゼットになっている。絵やポスターどころか飾りといえるものも何ひとつない、殺風景な部屋である。
「クローゼットの中に荷物が入ってる。いちばん左のたんすはおまえのだ」
「はい」
「よくできた」
 錦之助は隠岐の頭にぽんと手を置いた。隠岐は胸をなでおろした。”はい”という返事が考えなくてもできるようになるのはいったいいつのことやら。
 ダンボール箱を開けて中身をたんすに整理しながら、隠岐はふと気になった。
「あの、うちはどこで寝たらよろしおすのやろか」
「ここ」
 錦之助は後ろにあるベッドを指差した。
「でもそしたらお兄さんが寝はる場所のうなってしまうし……」
「誰がこんなでかいベッドにひとりで寝ろなんて言った?」
 隠岐はその意味するところを察して、絶句した。
「ええっ……」
「うちには押し入れもないし、ソファーじゃ寒いだろう。家族で考えたんだが、こうするのがいちばん合理的なんだ。枕は二つあるから今日から寝られるし」
「そいけど、そいけどな……」
 錦之助は、しきりに逃れる方法を考えている隠岐を見て、にやっと笑った。
「まさか隠岐、襲われるとでも思ってるんじゃないだろうな」
 隠岐はきょとんとして聞き返した。
「違いますのん?」
「いい覚悟だけど、おれはそういうつもりでおまえを連れてきたわけじゃない」
 隠岐は、まったく信じられなかったが、口答えをすると怒られそうなので黙っていた。錦之助の言葉が嘘でも本当でも、女形になる以上いずれは通らなければならない関所が存在することに変わりはない。
 その日一日は、荷物の整理で終わった。いちばん最後に、母親の位牌をたんすの上に置いて、水を供えた。
 夜はふけて十一時。
 最新式のシステムバスで旅の疲れを落としたあと、隠岐は浴衣に着替えて錦之助の部屋に入った。錦之助は、明日の四月興行の舞台稽古にそなえ、ベッドに腰掛けて台本を読んでいた。薄暗いスタンドの明かりの中に、若い役者の横顔がどきりとするほど美しく浮かび上がっている。
 錦之助は隠岐に気づいて振り返った。
「先に寝てていいぞ。おやすみ」
「……おやすみなさい」
 ひとりには大きすぎる羽毛布団をかぶったものの、眠ることなどできるはずがない。深夜過ぎ、やっとうとうとしかけたころ、錦之助がベッドに入ってきた。 隠岐は、隣に寝ている男の存在を十分に意識しながら浅い眠りについた。

八、

 松嶋錦之助は、目を血走らせて舞台裏の廊下を歩いていた。
 これから大名題(注:先祖代々の名跡を継ぎ、常に重要な役を演じる役者)の楽屋へ舞台前の挨拶に向かうところなのだ。大名題といっても錦之助にとっては親戚にあたる人々ばかりだが、まるで敵陣へ乗り込むような険しい顔をしている。
 京都祇園から中川隠岐という十五歳の少年を連れて帰ってきて、今日で一週間になる。いま、東京の阿国座では四月興行の真っ最中だ。役者の顔ぶれは、錦之助の父でいま人気絶頂の松嶋錦四郎、長年彼の相手役をつとめている立女方の菱川涼之助(ひしかわすずのすけ)、人間国宝に六十歳の若さで認定されたばかりの高島里三郎(たかしまりさぶろう)といった面々である。錦之助は、昼の部で『車引』の桜丸、夜の部で『助六由縁江戸桜』の福山のかつぎをつとめ、そのほかにも父の後見などで朝十時から夜十時まで阿国座に拘束される毎日だ。
 弁慶格子ののれんの前で、錦之助はぐっと気合を入れた。
「おはようございます」
「あっ若旦那、おはようございます」
 男衆がすかさずのれんを持ち上げた。ここは父・錦四郎の楽屋である。浴衣の前をはだけた錦四郎は、座布団に敷いた毛皮の上にあぐらをかき、ブロマイドとして発売するための写真を選んでいたが、錦之助の声を聞くとにやにやしながら顔をあげた。
「おはよ。待ってたよ」
「何でしょうか」
 錦之助は嫌な気分をなるべく顔に出さないように注意した。錦之助が実の父親にどうしようもない嫌悪感を持っていることは、誰にも知られてはならない。
「七月の仕事が決まった。歌舞伎劇場で『八幡祭』と『一本刀』、それから『羽根の禿』と『うかれ坊主』」
「『羽根の禿』…?」
 錦四郎も錦之助も身長百七十五センチ以上はある立役だ。廓の少女が追い羽根をついて遊ぶという内容の『羽根の禿』なんて踊るわけがない。いぶかしんだのもつかの間、錦之助はぴんときた。
「本当ですか!?」
「ああ。ぴったりだろう?初舞台には」
 錦四郎は欧米人のような明るい瞳をくるくるさせてウインクした。
「どうもありがとうございます」
 錦之助は深深と頭を下げた。
「隠岐ちゃんのことになると素直だな、おまえは。そんなに惚れてんのか?」
 錦四郎はハンサムな顔を息子のほうへ突き出した。錦之助は、一瞬、張り倒してやろうかと思ったが、
「隠岐はおれの大事な弟子ですから」
 とかろうじて冷静に言い返した。隠岐を付き人にしてからというもの、いつも神経がぴりぴりして、ちょっとしたことにも感情が爆発しそうになる。自分でも呆れてしまうほどだが、隠岐のことが心配で心配でしかたがないのだ。
 この幕内の世界には、あれほどの美少年をただ指をくわえて見ているような人間はいない。いくら蓬莱屋の御曹司の庇護下にあるといっても、スキをついて三階(注:脇役の役者たちが使う大部屋)に引っ張り込まれたらなすすべがない。それに、大名題から名指しで招かれるようなことになれば拒み続けることはできないだろう。それを怖れて、錦之助はつい神経質になってしまうのだ。
 初めて隠岐を阿国座に連れていくという日の朝、錦之助は隠岐を目の前に座らせて厳しく言い渡した。
「いいか。楽屋ではおれの言うことだけを聞いてろ。知らない人とは口をきくな。ひとりで楽屋の外をうろうろしない。もし誰かが、おれが呼んでるとか言っても、絶対ついて行くなよ。特に……」
 錦之助は迷ったすえ、低い声でしっかりとささやいた。
「……松嶋錦四郎には気を付けろ」
 隠岐は錦之助の勢いにあっけにとられていた。わかったか、と聞くとこっくりうなずいたが、なんだかおびえているようだった。少し言い過ぎるくらいがちょうどいい。自分がどれくらいその手の人間を惹きつける存在か、よくわかっていないようなところが隠岐にはあった。置屋育ちにしては鈍いし、ひそかに好いているらしい聡子への態度もじれったいほどおくてだ。錦之助が十五のときは、もう男も女も扱いなれていた。錦之助は、隠岐の無垢な心と体をできるかぎり守ってやりたいのだ。
 松嶋錦四郎はそんな息子の純粋な気持ちを鼻の先で笑いとばした。
「『大事な弟子』ねえ…おれの息子ともあろう者が、意気地のねえこと言やがる。そんなんじゃ、いつまでたっても報われねえぜ」
「ご忠告ありがとうございます」
 おれはおやじとは違う、と言いたいのをぐっと飲み込んで、錦之助は目を伏せた。
 錦之助は、親ゆずりの美貌と、二十歳という年齢にそぐわない大人びた性格のせいで、数え切れないほどの女や男から好かれている。だが、錦之助自身は、まとわりついてくる崇拝者たちに対していたって冷たく、朴念仁だと陰口をささやかれるほどだった。それが、毎朝、少女と見まがうばかりの美しい少年を連れて楽屋入りするようになったものだから、周囲の嫉妬と関心のものすごさは言うまでもない。
「ねえ、誰あの子」
「知らない……えっウソ、あれ裕之兄さんの付き人?」
「だから聞いてんの。たかちゃんが知らないなんてそうとうだなぁ」
「兄さん男は嫌いだっていつも言ってるくせにどういう風の吹き回しよ」
「ああいうのが好みならしかたねえよなー」
「子供じゃない。気が利かなそうだし。裕之兄さんはもっと大人っぽいのがタイプだと思うけど」
「ふーん。挨拶してきたらどうする?」
「決まってますよ、話しかけて友達になるの」
「オトナ〜」
「そうじゃなくて。間接キスのひとつもいただかなきゃあ」
「やっぱりたかちゃんもそこまで行ってると思う?」
 出番を忘れてしゃべっているのは、池田屋のひとり息子・高島磨里(たかしままり)と、“たかちゃん”こと三国屋の長男・菱川鶴吉、どちらも最近売りだし中の若女形だ。鶴吉は幼稚園の頃から従兄の錦之助のことが好きで、大きくなったら裕之兄さんのお嫁さんになるのだとずっと信じていた。いまでも、自分がいちばん錦之助のそばにいたいという気持ちは変わらない。
「まりちゃん調べてきてよ。同じ楽屋でしょ」
「いくらで?」
「”花京”のお弁当」
「いいよ、じゃあお昼にたかちゃんとこの楽屋行く」
「よろしくー」
 隠岐が来てからというもの、これと似たり寄ったりの会話が毎日楽屋内のいたるところで繰り返されている。なかにはもっと下品なものや、博打まがいのものまであった。錦之助が神経をとがらせるのも無理はない。
 磨里のいる楽屋に隠岐を置いてきたことを後悔しながら、錦之助は足早に次の幹部の楽屋へ向かった。歌舞伎界で唯一人、帯屋の屋号を持つ菱川涼之助の楽屋である。涼之助は、家族もなく弟子もとらず、成城の広い屋敷で独り暮らしをしているというめずらしい役者だ。子供の頃から才能を発揮し、天性の美貌も手伝って、三十路なかばにして女形の第一人者の地位を築き上げている。
 トレードマークの紫ちりめんの無地ののれんをくぐると、
「あら錦之助さん、おはようございます。帯屋、松嶋の若旦那がおいでですよ」
 マネージャーの女性が取り次いでくれた。涼之助は身の回りの世話をしてもらうのに若い女性を雇っているのだ。そのせいか、男衆のいるふつうの楽屋と違って、涼之助の楽屋は空気が軽いような感じがする。
「兄さんおはようございます。本日もよろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願いします。初舞台の話聞いた?」
「はい。ありがたいお話で……」
「そうよ。お稽古がんばってってあの坊やに言っといてね」
 そう言うと、涼之助は小さいテーブルの上に白い薬袋の中身をあけ、何種類かの錠剤にカプセル、二包みの粉薬をえり分けた。
「また薬増えたんじゃありませんか?体のほう大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫よ。こっちはただのビタミン剤」
 松葉模様の浴衣でしどけなく横座りし、湯のみで薬を飲む姿は、素顔の男とはいえ妙になまめかしい。
 実は、涼之助はもうかれこれ二十年以上松嶋錦四郎と愛人関係にあるのだ。舞台でもいつも互いの相手役をつとめている二人の仲は、もはや夫婦と言ったほうがいいかもしれない。錦之助は、私生活でも舞台と同じ関係をひきずるという歌舞伎界の慣習を嫌悪していたが、自分が生まれる前から父親とつきあっていたこの女形だけは嫌いになれなかった。
「ビタミン剤なんかよりちゃんと食べるほうが先でしょう。兄さん痩せすぎなんですから」
「肌にいいのよ。もういいから行きなさい。坊やが待ってるわよ」
 やさしく追い出されて、錦之助は次の幹部の部屋へと向かった。
 このごろでは、どこの楽屋へ行っても隠岐のことで嫌味を言われる。よくも毎日からかいのネタを思いつくものだ。人間国宝だの大名題だのといっても、結局、頭の中にあるのはいやらしい想像くらいなのだ。廊下を大股で歩きながら、錦之助はやり場のない怒りを溜息にして吐き出した。
 むっとするたびに営業用の笑顔でごまかしながらの挨拶回りがやっと終わって、自分の楽屋に戻った錦之助が見たものは、信じられない光景だった。
 浴衣姿の磨里が畳の上にうつぶせに寝そべっており、その腰のあたりに隠岐がまたがっている。
「おいっ!何やってる!」
 錦之助は初めて隠岐を怒鳴った。

九、

 錦之助にいきなり頭上から怒鳴られて、隠岐が背中の上から飛び降りた。
「なあに?大きな声出して。マッサージしてもらってただけじゃん。別に裕之が心配するようなことしてないって」
 池田屋の御曹司は畳に寝転がったまま平然としている。立役の前で寝転ぶなど女形としてはけしからぬ態度だが、この若女形はそういうたしなみをまったく気にしていないようだ。
 錦之助は磨里を完全に無視して隠岐の腕をつかみ、引き離した。
「おれの用事以外はするなってあれほど言っただろう。何でも人の言うなりになってたら体がいくつあっても足りねえぞ」
「へえ、あ、はい。そいけどあんまりつらそうにしてはったさかい……」
「ばか。芝居だよ。おまえに構われたいだけだ」
「あーっ、ひどい。嘘じゃないもん」
 磨里は寝返りをうって首だけ錦之助のほうに向けた。
「昨日ヤスさんすげえ元気だったからさー、今朝だって幸村先生んとこで点滴打ってもらってから来たんだよ」
 "ヤスさん"とは松風保次郎という三味線弾きで、磨里の目下の恋人である。錦之助はまたも聞こえないふりをした。
「隠岐、着替えるから手伝え」
「はい」
 錦之助の楽屋着は、蓬莱屋の伝統的デザインである蝶のつなぎだ。隠岐は、錦之助の脱いだスーツをハンガーにかけたあと、自分もおそろいの浴衣に着替えた。あつらえたばかりらしい、柄のくっきりした浴衣は、裄も丈も身幅もあとから伸ばせるようにずいぶん縫い込んである。
「隠岐ちゃん、身長いくつ?」
「答えなくていい」
「ほっそいねえ。体重四十キロくらい?」
「磨里、うるさいぞ」
「いいじゃん話ぐらいしたってー」
 磨里はあきれた。こんなに神経質になるなんて、以前の錦之助からは考えられない。いつも周囲の物事にはまったく関心がなさそうで、頭の中は芸のことだけでいっぱいなおぼっちゃんだったのに……。磨里は思わず聞いてみたくなった。
「そんなに好きなの?」
「磨里」
 錦之助の声は低く静かだったが、磨里はすぐ黙った。業界の中でただひとり同い年で、生まれたときから親友でありライバルだった芳田裕之の心の内側は、この距離にいれば手に取るようにわかってしまう。
 錦之助は隠岐ちゃんにご執心、でも片思い。それが磨里の出した結論だった。
 たどたどしい手つきで茶を入れている小柄な少年を見ながら、磨里はひそかに舌を巻いた。磨里が知っている限り、錦之助が本気で惚れたのは、自分の姉で映画女優の高島ゆり子だけだ。
 ゆり子は、身内から見ても完璧なほどに美しい女性で、女優としても、日本には収まりきれずにハリウッドで仕事をしているほどの才能の持ち主である。ゆり子がアメリカに住み始めてから、錦之助との関係はいちおう遠距離恋愛ということになっていたが、どちらからともなく連絡がとだえ、いまではお互いの話は禁句になっている。
 磨里は内心、姉と親友がうまくいってほしいと願っていた。そしてできれば結婚してほしい、と。だが、ゆり子のいないすきに、錦之助は運命の人を見つけてしまったらしい。
 それがこの子か……磨里はあらためて隠岐を観察した。鶴吉の言い草ではないが、ずいぶんと子供っぽい。小さい子特有のさらさらとして傷のない髪と肌。顔立ちは生きている日本人形さながらの美しさだ。しかし、ただ小鹿のようにかわいいだけで、性的な魅力というものがまったく感じられない。お稚児さんと言うにも幼すぎる。
 年上好みだった錦之助がどうしてこんな子を?磨里の好奇心は微妙に刺激された。もしかしたらこの少年は見かけによらずいろいろな手練手管を使うのかもしれない。何とかしてそれを聞き出してやろうと磨里は決めた。むろん、自分の恋愛に役立てるためである。
「隠岐」
 昨日のダメ出しをチェックしていた錦之助がおもむろに呼んだ。錦之助は毎朝こうして昨日の間違いをひととおりさらってから舞台に立つ。注意されたことをいちいちメモしておくなど、ずぼらな磨里には考えられないことだ。
「はい?」
「初舞台が決まったぞ」
 初舞台、という言葉に隠岐は少し不安げな顔をした。
「ほんまどすか」
「七月の歌舞伎劇場だ」
「七月……あと三ヶ月もおへん」
「そうだ。急がないと間に合わないぞ。今日は出雲の御宗家のところに御挨拶に行って、明日から稽古だ」
「明日から?ひとりでどすか?」
 磨里は奇妙に感じた。梨園の血筋でもない弟子の初舞台といったら並びの腰元役か新造役に決まっている。腰元を三ヶ月も前から個別に練習するなんてばかげている。
 だが、錦之助の返事は意外なものだった。
「ああ。ひとりで踊るんだからな」
「え?」
 磨里もぴくっと耳をそばだてた。
「長唄の『羽根の禿』だ。一度くらい見たことあるだろ」
「へえ……」
 気をつけているらしい返事が、すっかり京都弁に戻ってしまっている。
「でもあれを?うちが?歌舞伎劇場でやるん?」
 錦之助はメモに目を落としながらうなずいた。
「ああそうだ、名前を決めないといけないな。そんな大役を本名でやったらおかしいし。松嶋……」
「あの、お兄さん、それもう決まったことどすの?」
 おどおどと尋ねる隠岐を、錦之助は刺すような目つきで見つめた。
「決まったことだ」
 隠岐は黙り込んでしまった。あまりにも大きすぎる仕事に怖気づくのは当たり前だが、錦之助のあの目つきの前でやりたくないと口に出す勇気があるはずはない。
 中幕の所作事(注:舞踊)は若い女形にとっての試金石である。しかも、ひとりで踊る演目をやらせてもらえるのは踊りの名手として認められた役者だけだ。あの広い歌舞伎劇場の舞台にたったひとりで立ち、二千人の観衆を前にして一曲を踊りきらなければならない。このプレッシャーと緊張感はやった者にしかわからない、と磨里は思う。隠岐の手が膝の上で震えているのを見て、磨里は少し前の自分を思い出した。
 磨里は先月、二十歳の誕生日プレゼントとして初めて中幕のひとり舞台をつとめたばかりだ。曲は『藤娘』。稽古の厳しさはふだんとは比べ物にならず、二十歳になろうという大の男が泣きそうになるくらいだった。初日の前には緊張のあまり食事をもどして、五キロも痩せてしまった。おまけに、この曲は途中で衣裳を何度も引き抜いて早替わりをする。毎日が正念場、一回でも失敗は許されない。
 磨里はそのとき、舞台の責任を一人で引き受けるということの重大さと、たとえ一人舞台といえども大勢の裏方に支えられてはじめて成り立つのだということを学んだ。
 とにかく、弟子入りしたばかりの十五歳の少年が初舞台で『羽根の禿』をつとめるなんて、前代未聞である。絶対に裏になにかあるにちがいないが、どんな理由があるにしても幹部もずいぶん思い切ったことをするものだ。
「すごいお役じゃない。隠岐ちゃん、がんばってね」
 まだ呆然としている隠岐に声をかけてやる。がんばってね、はひそかにプレッシャーをかけるときの合言葉だ。磨里とて嫉妬がないわけではない。こんな素人の子供に簡単に追いつかれてはかなわない、と心の奥底では思っているのである。
 その日の昼、一つ年下の女形仲間・菱川鶴吉の楽屋を訪れた磨里は、心ゆくまで隠岐の噂話に花をさかせた。
 鶴吉も隠岐についていくつかの情報を仕入れてきていた。祇園の置屋の息子であること、梅原茂波の稽古場で聡子と知り合ったこと、などなど。
「なあんだ、さっちゃん経由か」
 磨里は約束の“花京”の松花堂弁当を鶴吉から受けとると、膝の上にひろげた。さすがに弁当を食べるときにはきちんと正座する。
「茂波先生のお弟子だったっていうから、けっこう踊れるんじゃないかって話」
「ふうん。だから『羽根の禿』か」
「え?何のこと?」
「知らないの?隠岐ちゃんの初舞台。七月の歌舞伎劇場」
 鶴吉は座布団から腰を浮かせた。
「うそ!そんなことってあるの?誰かの隠し子かしらね」
「あ、その線はあるな」
「……で、兄さんとの関係はどうなの?」
 鶴吉がいそいそと顔を寄せてきた。色白で貴族的な顔立ちは、美青年の部類に入る。こんなになよなよしていなければもっとモテるだろうに、鶴吉は女性にはほとんど興味がないのだった。
「たぶん、おそらく、十中八九、師匠と弟子」
「へーえ、意外……」
「たかちゃんが言ったとおり、ほんとあの子ガキだよ」
「でしょ。裕之兄さんっていうより、さっちゃんとお似合いなんじゃないの?」
 鶴吉は満足そうに弁当をほおばっている。磨里はひとつだけ鶴吉に隠していた。錦之助の"心"はもう隠岐に取られている、ということを。

十、

 その日の夜十時半、隠岐は錦之助に連れられて"出雲の御宗家"こと三世出雲清十郎の稽古場へ行った。
 夜十時半など、常識では目上の人を訪ねる時間ではないが、この世界では夜が社交の中心である。ほとんどの劇場では夜の部の芝居がハネるのが九時半だから、それから稽古に行ったり遊びに出かけたりするのがふつうなのだ。
 宗家の稽古場は、都心にあるにもかかわらず三百坪の平屋建てで、家の中心には阿国座の舞台とまったく同じ大きさの舞台がしつらえてあり、奥には内弟子たちが寝泊りしている。本人と家族は別の家に住んでいて、内弟子が毎日車で送り迎えしているのだ。
 稽古場にはこうこうと明かりがついていた。玄関には大きな下駄箱があり、そこに二十足くらいの靴や草履が並んでいる。隠岐はびっくりして聞いた。
「いまもこんなにお稽古に来てはるの?」
「これは内弟子さんの靴だよ。今日は空けておいてくれるようにお願いしてあるから、稽古には誰も来てないはずだ」
 二十人もの内弟子を食べさせていくなんて、並大抵の踊りの師匠では不可能である。すべての歌舞伎役者の教育を手ほどきから一気に引き受けている出雲清十郎だからこそできる経営だ。
「こんばんは、錦之助です」
 錦之助が大きな声で言うと、内弟子と思われる四十歳くらいの着物を着た男の人がにこやかに出てきた。
「お待ちしておりました。宗家は稽古場におりますので、どうぞお上がりください」
 錦之助は黙って会釈をして靴を脱いだ。かしずかれるのに慣れた御曹司は内弟子などに余計な愛想をふりまかない。それがまた自然で、隠岐は少しあこがれた。
 三人が横に並んでゆったり歩けるくらい広い廊下を、右に曲がったり左に曲がったりしながら三十メートルほど行くと、やっと稽古場の入り口にたどりついた。錦之助が膝をつき、中に声をかける。隠岐も緊張して羽織の襟を直した。
「錦之助です」
「お入り」
 襖が開かれ、隠岐は伏せていた目を上げて息をのんだ。正面には見渡す限りの檜舞台、自分のいる手前側はお城の大広間のような畳敷き……そして極め付けは、舞台と向かい合わせの壁いちめんに張られた鏡である。ただでさえ広い稽古場が、鏡のせいで二倍の広さに感じられるのだ。
 その大きな空間の真ん中に、ひじかけいすに腰かけた出雲清十郎がいた。
「もっと近くに来なさい。顔が見えない」
 良く通る声だ。年のころはもう七十を過ぎているだろうが、顔色はとても健康そうでつやがある。ふさふさした白髪をオールバックにしていて、小柄な体に粋な黄八丈がよく似合っている。この年齢でメガネすらかけていない。
「裕之君に会うの、久しぶりだなあ。弟子入りしたいというのはこの子かい?」
 出雲清十郎は、錦之助がさりげなく渡した袱紗包みのなかから封筒だけを抜き取りながら、隠岐の顔をじろじろ眺めた。
「どれどれ。ほう、舞妓さんか。裕之君もなかなかいい好みをするようになったじゃないか」
「私の部屋子で、中川隠岐と申します」
「部屋子?じゃあ男か……まあいいよ、ほかでもない裕之君の頼みだから」
「ありがとうございます」
 錦之助が頭を下げたので、隠岐もあわてて挨拶した。
「中川どす。よろしゅうお願い申し上げます」
「うんうん。せいぜい気張ってな」
 清十郎は目じりにしわを寄せてにっこり笑った。隠岐は、いい人なんだなと思った。
「御宗家、さっそくのようですが、明日からお稽古していただいてよろしいでしょうか」
「何をやるの?」
「『羽根の禿』です」
「はいはい『羽根の禿』ね。時間は?」
「御宗家の都合がよろしいときに……この子はまだ舞台に出てませんから何時でも結構です」
「じゃあ、今日と同じ時間にしようか。裕之君も終わってから一緒においで。最近すっかりご無沙汰じゃないか」
「申し訳ありません」
 隠岐は、錦之助が怒られるのを見ておかしくなった。
「そうかそうか、うちに顔を見せなくなったと思ったらこんなかわいい子を手に入れてたのか。納得納得」
「それではどうぞよろしくお願い致します。隠岐、おいとまするぞ」
 錦之助の態度は無礼にならないぎりぎりの線だった。物言いは柔らかだが明らかに相手の言葉を無視している。用事が済むとすぐさま帰ろうとするのも、子供の頃から教わってきた師匠に対する行動としては不自然だ。
 隠岐には、どうして錦之助がそんなに不機嫌なのかわからなかったが、立ち上がった彼の後について急いで稽古場を出た。
 車の中でも錦之助は終始無言だった。よほど嫌なことがあったような雰囲気だ。
 深夜、マンションに帰って風呂に入ったあと、隠岐は聡子に聞いてみた。
「お兄さん、御宗家と仲悪いん?」
「ううん。仲がいいとも言えないけど……偉い方だから」
「ほななんであない無愛想やったんかなあ」
「え、無愛想だったの?……ふうん」
 台所のテーブルで、ふたりで熱い煎茶をすする。風呂上りのパジャマ姿の聡子は、いつもよりさらに色が白くて、隠岐は思わずじっと見いった。
「どうしたの」
「いや、色白いなあと思て」
「隠岐さんに言われたくなーい」
 聡子は笑いながら立ちあがった。
「私もう寝るね。おやすみなさい」
「おやすみ」
 聡子の後ろ姿を見送っても、隠岐はまだ錦之助の態度が心にひっかかっていた。
 そのとき、錦之助は自分の部屋で携帯電話から出雲清十郎の自宅に電話をかけていた。
「奥様ですか?錦之助です。御宗家はもうお戻りでしょうか……ええ、お願いします」
 待っている間に呼吸を整える。
「御宗家?もう、あんなことはやめてください。……とぼけないでください、隠岐は何も知らないんですから。もちろん、俺のことを隠しておけるとは思ってません。でも」
 ガチャ、と聡子が隣の部屋に入る音が聞こえた。隠岐もそろそろこの部屋に戻って来るだろう。
「とにかく、そういうことですからくれぐれもよろしくお願いします。では」
 もうかかってこないように電源を切ってサイドテーブルに置いたとたん、隠岐が入ってきた。
「お兄さん、まだ着替えてしまへんの?」
「ああ」
 錦之助はひとつひとつ脱いだ服を片付けながらゆっくり着替えた。仕事で一日に四回も楽屋風呂に入っている錦之助は、舞台が休みでないかぎり家の風呂をつかうことはないのだ。
 隠岐はひとりでさっさとベッドにもぐりこんでいた。最初は一緒に寝るのをあからさまに嫌がっていたのに、いまでは錦之助が閉口するほどべったりだ。肉親のいない家庭で育ち、誰かに甘えたいという気持ちが抑圧されていたのが、いっきにあふれ出したのだろうか。
 ―――出雲清十郎。全国に三百人近い直弟子を持つ日本一の舞踊の家元。彼が七十歳にして超人的な若さと健康を維持している秘訣と、歌舞伎界での利権を独占している本当の理由を知っているのは、錦之助を含めたごく一部の人間だけだ。
 歌舞伎役者の子弟は、六歳の六月六日になると出雲の御宗家の稽古場へ連れて行かれ、稽古始めの儀式をおこなう。それから何年か手ほどきを受けたあと、舞踊の才能を認められなおかつ容姿端麗な男子だけが清十郎の特別な稽古に呼び出されるのだった。こうして呼び出された者は、めきめきと上達し、本舞台でひとり立ちの所作事を踊らせてもらって世間の注目を浴びるようになる。そしてやがて歌舞伎界を担うスターになっていき、幹部役者に出世し、舞台裏を動かす人間となる……。
 この図式がある限り、清十郎の宗家としての地位は絶対なのだ。
 錦之助は、みずから進んで清十郎の特別な弟子になった者のひとりだった。そのことは後悔していない。だが、隠岐のことを思うと、清十郎に気に入られている自分がたまらなく汚らわしく思えてくる。
 「お兄さん、……」
 隠岐は猫のように肩に頬を押しつけてきた。錦之助は機械的に指先で隠岐の髪をなでながら、いつまでも暗い天井を見つめていた。

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