京鹿子恋山路 初舞台編

名古屋あき

十一、

 午前十時に劇場入りして付き人の仕事をこなし、終演後に宗家の稽古場へ行って踊りの稽古をするという日課に慣れてくると、錦之助はもう稽古についてこなくなった。隠岐をベンツで宗家の稽古場まで送り届けたあと、ふいとどこかへ行ってしまい、三軒茶屋のマンションに帰ってくるのはたいてい日付が変わってからだ。隠岐は稽古が終わるとひとりでタクシーに乗って家に帰り、先に寝る。目が覚めるといつの間にか錦之助が隣にいるのにもすっかり慣れた。
 隠岐は一度だけ、錦之助に毎晩どこへ行くのかと聞いてみたが、
「子供の知らないところ」
 とはぐらかされた。隠岐も男だから、なんとなくわかる。錦之助に対しては、潔癖な人というイメージをいだいていたので少し意外だったが、余計なことは詮索しないようにしようと決めた。
 そんなことより隠岐は、初舞台の稽古で頭がいっぱいだった。頭がいっぱいというのは、踊りが難しく稽古が厳しくて大変だということではなく、初めて知った歌舞伎舞踊という世界の魅力にとりつかれてしまったのだ。
 宗家・三世出雲清十郎の教え方は少し変わっている。まず長唄の歌詞の意味と、ひとつひとつの振付の意味をこと細かに説明し、それから動きの訓練に入るのだ。ただ完璧に形を真似ることが重要視された京舞と違ってずいぶん理論的である。
 何の気もなく踊っていると突然、
「いま見上げた空はどんな空?」
 と隠岐に説明させたりすることもある。隠岐にはそれがおもしろくて仕方がなかった。稽古を重ねるたびに、舞台の上に吉原の街ができあがっていく。隠岐はもともと、踊りで世界を創り出す能力にすぐれていた。その創造力が、歌舞伎舞踊というものに出会っていっきに花開いたのである。
 日差しも夏めいてきた五月下旬のある日―――。
 隠岐はもうそのころには振付を完全に覚えてしまって、仕上げの段階に入っていた。
 だだっ広い稽古場の真ん中で一対一、よろしくお願いしますと頭を下げると、清十郎は急に突拍子もないことを言い出した。
「隠岐君、着物を脱いでごらん」
「え?」
「今日は裸で稽古しなさい」
 これが、役者の間では有名な“裸稽古”だった。ふだんは着物に隠れて見えない腕や脚の格好がもろに見えるので、まったくごまかしがきかない。どんなに細かい体の線までもが清十郎の厳しい目にさらされる裸稽古は、弟子たちに非常に恐れられているのだ。
 しかし隠岐はそんなことは露知らず、不審に思いながら浴衣を脱いだ。
「襦袢も」
 と言われて、結局パンツ一枚と足袋という他人にはあまり見せたくない姿にさせられてしまった。あばらの浮いた胸やマッチ棒のような足が恥ずかしくて、隠岐はしきりに手で体をこすった。
「米田君、『羽根の禿』、頭から」
 清十郎は伴奏のアルバイトを頼んでいる芸大の学生に声をかけた。
 置唄(注:曲の冒頭にある前置きの唄)が終わると、隠岐は裸でいつもどおり踊りはじめた。即座に清十郎の張りのある声が飛ぶ。
「もっと腰をいれて!ひざが前の足にくっつくまで」
 言われたとおりにやろうとすると、おすべりひとつにしてもひどく疲れる。足腰は茂波に鍛えられたはずなのに……隠岐は歯をくいしばって全身に神経を集中した。すると、
「禿が踊ってない」
 と注意される。体を絞りこみながらも、禿のあどけなさを演じきらなければならない。素に戻ってはいけないのだ。
 三十分間の稽古が終わると、隠岐はありがとうございましたとお辞儀をした頭を上げられないほど疲労していた。まるでいままでの振付を全部直されたような感じだ。
「疲れたかい?ケーキでも食べていきなさい」
 清十郎は涼しい顔でにこにこしている。その目が執拗に自分の裸を見つめているのを感じ、隠岐は急いで元通り浴衣をまとった。
 内弟子の男の人が運んできてくれた紅茶とケーキで元気が回復したところへ、さきほど伴奏を弾いてくれた米田という学生が一枚のチラシを手渡してくれた。
「ほら隠岐ちゃんこれ見な、歌舞伎劇場の七月の出し物載ってるよ」
「おおきに。……わあ、どないしょう」
 B5サイズのチラシには、『羽根の禿』を踊っている女形の浮世絵をバックに役者の顔写真と演目が印刷してある。これは、この月の目玉が『羽根の禿』であることをあらわしている。
「ずいぶん売り出してるね」
 米田の声ははずんでいる。米田は、隠岐のファン第一号と自称しているのだ。かなり太めではあるが愛嬌のある男で、腕もそこそこうまい。錦之助とも友達らしい。
「電車のつり広告にもババーンと隠岐ちゃんの写真出ててさ、びっくりした」
「写真?うちそんなん知りまへんえ」
「うそォ、ポスター撮りしたんでしょ?きれいにお化粧して……」
 隠岐は記憶をたぐった。東京に来てから写真を撮ったのは、プログラム用の白黒写真を紋付姿で撮ってもらったときだけのはずだ。それはもちろん素顔である。化粧をして撮ったことなどないはずなのだが……。
「あっ、米田はん、もしかしてそれ、顔だけ化粧して頭はこのままの?」
「そうそう。ちょっとミスマッチなんだけど、それがかえってすごくきれいに見えてさ。誰が考えたの?」
 思い出した。いつだったか、錦之助の命令で、菱川涼之助の楽屋に出向いて化粧を教えてもらったことがあった。涼之助はいろいろと説明してくれながら隠岐の顔を仕上げると、隠岐に留守を頼んで楽屋風呂に行ってしまった。
 五分ほどおとなしく留守番をしていたら、外から楽屋をちらっちらっとのぞいている中年の男の人がいるのに気づいた。隠岐は外に出ていって、その男に声をかけた。
「帯屋はん、いてはらしまへんえ。お待ちになりはんのどしたら、どうぞ中へお入りやす」
 するとその男は、ありがとうと言いながら二、三歩後ろへさがり、隠岐に向かっていきなりカメラのシャッターを切ったのだ。
 隠岐は男の無礼にむっとしたが、涼之助の客だからと思って我慢した。
「じゃあ、中で待たせてもらおうか。君、名前は?」
 横柄な口調にますますむっとしながら、
「中川どす」
 と答えると、男は、
「私は宮城エイジだ」
 と名乗った。
「宮城はんどすか。よろしゅう」
 男は妙な顔をしたが、にやりと笑って、よろしく、と言った。
 隠岐はまったく知らなかったが、宮城エイジは女優の写真を専門に撮り続けてきた有名なカメラマンで、その日は涼之助のカレンダーを撮影するための打ち合わせに来ていたのだ。
 そのことを風呂から帰ってきた涼之助に聞かされ、隠岐はやっと、いきなりカメラを向けられた意味がわかったのだった。
「宮城はんいうカメラマンのお人が楽屋で撮ってくれはったんどす」
「宮城って、宮城エイジ!?すげえなあ。あ、隠岐ちゃん松嶋隠岐って名前なんだー。いい名前じゃない」
「お兄さんが勝手に決めはったんえ。本名は嫌やて言うたのに」
 チラシをながめていた隠岐は、タイトルの『羽根の禿』の横に、小さな字で『口上』とあるのに気づいた。口上とは、有名役者の襲名披露のときや初舞台のときなどに、親兄弟・親戚・先輩が舞台に座をつらねて観客に挨拶することである。
「口上て誰の口上かなあ」
「何言ってんの、隠岐ちゃんの初舞台の口上でしょ。おもしろい子だね」
「そいけどうち、偉い人の子供でもないし、けったいやわ」
「それだけ若旦那が隠岐ちゃんの事を大事に思ってくれてるってことだよ」
 隠岐は大きく首をかしげた。それがおかしかったのか、学生は笑っている。
 錦之助の態度は近頃そっけなくなるばかりだった。
 楽屋で一日中いっしょにいても、必要なことを一言二言命じるだけで会話といえる会話もない。隠岐を呼ぶときも「おい」で、叱るとき以外には名前を呼んでくれなくなった。同じベッドで寝ることにもようやく慣れ、初めて人の体のあたたかさを知ったと思ったら、連日の朝帰りだ。
 隠岐はべつに悲しくはなかった。“女”にされて、人前でべたべたされるより百倍ましだ。でも、見ず知らずの大人ばかりの世界に放りこまれ、ただひとり頼りにしている錦之助から冷たくされると、ときどきどうしようもない孤独を感じるのは確かだった。

十二、

 隠岐が弟子入りしてから二ヶ月がたち、梅雨も終わりに近づいた。
 付き人の仕事をこなしながら毎晩の激しい稽古に耐えるという生活で、隠岐の体は変わりつつあった。ただでさえ十五歳の少年の成長はめざましいものだが、腿に筋肉がつき、手足が長くなって、しっかりとした体になってきた。いちばん変わったのは顔である。不良時代のなごりの世を拗ねて甘えたようなわがままな表情がすっかり消え、真剣なりりしい顔つきになった。隠岐にもようやく覚悟ができてきたのである。
 初舞台の準備は思いもかけない大変なものだった。連日のように贔屓筋やマスコミ関係、大名題への挨拶回りに引っ張りまわされ、忙しさに緊張する暇もない。なぜ御曹司でもないのにこんな大げさなことをしなければならないのかと錦之助に聞くと、歌舞伎の興行をプロデュースしている株式会社河村座が隠岐をスターの卵に選んだのだと説明してくれたが、それもわけがわからない説明だ。
 七月一日、初舞台の初日はどしゃぶりの雨だった。
 夜七時からの本番に向けて、隠岐は楽屋で化粧の練習をしていた。初日ということで、聡子もきちんと絽の着物を着て楽屋に来ている。
「きれいきれい、ほら見てよ磨里さん、お人形みたい!」
 背中まで真っ白に塗りつぶし、笹の葉型の眉を描き、筆で目尻と唇に紅をはくと、ほんとうにかわいらしい美少女ができあがった。黒目が大きくて丸顔なので、とても幼く見える。隠岐は鏡の中の自分をちらっと見て、すぐに目を伏せた。
 今月もまた錦之助と同じ楽屋になった高島磨里は、『名月八幡祭』の辰巳芸者の格好であぐらをかいて台本を見ていたが、聡子の声に顔を上げた。
「どれどれ、隠岐ちゃんこっち見て。……へえ、顔うまいじゃん。誰に習ったの?」
「帯屋はんどす」
「やっぱりねー。涼之助兄さん教えるのうまいもん」
 そしてごく自然な感じで嘘をついた。
「あ、さっちゃん、さっき朝子おばさんが探してたよ」
「ほんと?何だろう」
 聡子は外へ出ていってしまった。残された隠岐に、芸者姿の磨里はゆっくりと膝でつめよってきた。
「ここはね、もうちょっと紅を足したほうがいいよ」
 筆を取って隠岐の目の回りになにやら描き始める。
「何しはりますの?」
「それでこうやってぼかしてね……」
 指で線をぼかすと、禿の顔が立派なむきみ隈になった。鏡で見た隠岐は思わずふき出した。
 それを、運悪く舞台から帰ってきた錦之助に見つかってしまった。
「こんなときに何やってんだ!少しは緊張しろ!」
 いままで演じていた曽我五郎の形相で怒鳴られ、隠岐は怒られているのに笑ってしまいそうだった。隠岐の初舞台だというのに、錦之助がいちばん緊張しているようだ。
 時刻は刻一刻と本番に近づいていく。羽二重(注:鬘の下に巻く布)を巻いて化粧をしなおし、衣裳を着付けてもらって、鬘をつけると、錦之助に連れられて舞台袖へと移動した。舞台では錦四郎が『うかれ坊主』を飄々と踊っている。
「大丈夫か?」
 紋付姿に着替えた錦之助が顔をのぞきこんできた。隠岐はうなずいた。のどがかわいて声が出ない。
 『うかれ坊主』が終わり、拍手とともに暗転になった。下座(注:芝居のBGMを演奏する場所)では片シャギリが演奏され、大道具があわただしく転換される。隠岐は、舞台中央のセットの蔭に連れて行かれた。『羽根の禿』は、遊郭の玄関先ののれんをくぐって禿が登場するという演出なのである。
 セットに隠れて高いぽっくりを履くと、隠岐は急に怖くなってきてしまった。暗闇の中から客席のざわめきが伝わってくる。白く塗った手のひらに汗がにじむ。
「お兄さん、どないしよう、緊張する」
 そのとたん柝が鳴った。もう後戻りはできない。
「大丈夫。絶対大丈夫。落ちついて」
 錦之助は隠岐の肩を強く抱いた。
 ひときわ高く止め柝がちょんと入り、一瞬遅れて舞台がパッと明るくなる。
 チントンシャン恋の種蒔きそめしより色という言葉はいずれこの廓に―――。
「いまだ」
 錦之助は隠岐の背中をぽんとたたいた。
 隠岐は、教わったとおりのしぐさで大きなのれんを分けた。まばゆいライトに目が眩む。その一瞬後、客席を埋めつくした三千人の観客が全員自分を見つめているのが見えた。
 隠岐はのれんを取り落とし、一目散に舞台奥に駆け戻った。
「あかん、お兄さん、うち、出られしまへん……」
 必死でこらえようとしたが、涙が盛り上がってくる。
「馬鹿野郎!!」
 錦之助は隠岐の両肩をつかんで揺すぶった。
「出るんだよ。役者だろ。失敗してもいいからやれ!」
 強い力で背中を押し出され、隠岐はよろめくようにして舞台へ走りだした。ぱっとのれんをはねのけて、明るい舞台の真ん中へ走り出る。
 と、勢いあまって転んでしまった。観客全員が息をのみ、劇場の空気が一瞬止まる。
 隠岐は何がなんだかわからなくなって、べそをかきそうになった。自分はいまここでこんな格好をして、いったい何をしているんだろう?
 そのとき、隠岐の頭に宗家の稽古場で叩きこまれたことがよみがえった。
 そうだ。ここは吉原でいちばんの老舗、角海老楼の前の大通り。いまは正月、晴れ着を着た人たちがうきうきと往来を歩いている。自分はここで転んでしまったけれど……そう、店の中から勢いよく飛び出してきて大人にぶつかってしまったのだ。
 隠岐は立ち上がって着物の裾と袖をはらった。
 そのときから、歌舞伎劇場の広い舞台はまさしく隠岐の独壇場となった。
 三千人の観客の目の前にいるのは、角海老楼に勤める九歳の禿だった。無心で羽根を追いかける姿、廓育ちらしいませた態度……きりりとした長唄の音色とあいまって、吉原情緒いっぱいの華やかな空気が劇場全体を押しつつむ。
 最後に舞台の中央に座ってお辞儀をし、割れるような拍手がわきおこってはじめて隠岐は我にかえった。ほっとして思わず涙が出そうになったが、この後の口上のことを考えて必死でこらえる。口上くらい間違えずにちゃんと言わなければ、錦之助に恥をかかせることになる。
 拍手がおさまるかおさまらぬかのうちに舞台上手から錦四郎、下手から錦之助が裃姿で登場し、隠岐をはさんで左右に座った。「蓬莱屋!」の掛け声がふりそそぐ。
「いずれも様におかれましてはご機嫌の体を拝し、恐悦至極に存じまする。松嶋錦四郎にござりまする」
 さすがは当代一の人気役者、名前を言うだけで客席が大いに盛り上がる。
「さてこのたび、私の長男錦之助の弟子でございます松嶋隠岐が当月当歌舞伎劇場におきまして初舞台を踏ませていただくことと相成りました。一座高うはござりまするがなにとぞご贔屓お引き立てのほど、お願い申し上げたてまつりまする」
「ごきげんよろしゅうござりまする、松嶋錦之助にござりまする」
 こちらの拍手も負けてはいない。
「本日は、私の弟子、松嶋隠岐の初舞台にかくもにぎにぎしく足をお運びくださり、まことに恐悦至極に存じまする。いずれはひとかどの役者にもなれますよう精進致させますゆえ、なにとぞ御指導御鞭撻のほど、伏してお願い申し上げる次第にござりまする」
 錦之助の声は隠岐がいままで聞いたことがないような気迫のこもった声だった。いま舞台の上に錦之助と並んでその声を聞いているということが隠岐にはなんとなく信じられないような気分だ。
 隠岐は伏せていた顔を上げてまっすぐ客席を見据えた。
「松嶋隠岐にござりまする」
 思っていたより甲高い声になってしまった。だが震えなかったのは幸いだ。
「よろしくお願いいたしまする」
 額を所作台(注:踊りを上演するとき舞台に敷きつめる板)にすりつけたまま、幕が閉まるまでぴくりとも動けなかった。拍手の音が大きすぎて怖かったからだ。
 幕だまりへ引っ込むと、びっくりするほど大勢の役者が集まっていた。隠岐の舞台を袖から見ていたのである。しかし、大半の役者は何も言わずにさっさと自分の楽屋へ帰っていってしまった。話しかけてくれたのは菱川涼之助だけだ。
「隠岐ちゃん、ちょっと私の楽屋に来てくれる?」
 言われて錦之助を振り返ると、うなずいて見せたので、はいと答えた。最近は、錦之助が以前にもまして口やかましくなって、隠岐が何をするにも錦之助の許可を得ないと怒るのだ。
 衣裳と鬘だけ脱いで楽屋着に着替えたあと、錦之助といっしょに涼之助の楽屋へ行った。先客として錦四郎がいたので、小さな楽屋はすぐ満員になる。
「ちょっと待っててね」
 涼之助は部屋のすみに置いてあった長細い風呂敷包みをとってきた。包みをといて中から取り出したのは、一反の反物だった。丁寧に水引が結ばれていて、のしには、涼之助の字で『ごほうび』と書いてある。
「はい、私からのお祝い」
 反物は純白の正絹だった。何に使えばいいのかもわからないほどの、最高級の練り絹である。
「おおきに、ありがとうございます」
「俺からのもあるぜ」
 錦四郎は涼之助をあごでうながした。涼之助は風呂敷の中からもうひとつ反物を取り出し、隠岐に渡した。
「はい、これは大旦那さんのお祝い」
「おおきに……」
 こちらは渋い江戸紫のちりめん地にぼかしと絞りを巧みに使って蓬莱屋ゆかりの蝶々の図柄がちりばめられている反物だった。あきらかに振袖用のものだ。こんなものを自分に着せてどうする気だろう、と隠岐は思った。聡子にあげたほうがよほど役に立つのに。涼之助も錦四郎も、実用性のない贈り物をくれるものだ。
「俺からはこれだ」
 錦之助は立ちあがって、衣裳の後ろに隠してあった大きな箱を引っ張り出した。どうやら、この部屋で隠岐に祝いの品を渡すように、以前からしめしあわせていたらしい。
「何どすか?」
 外側の箱を取り去ると、現れたのは、朱と黒のつやが美しい、新品の塗りの鏡台だった。
「わあ……!」
 隠岐はひとめで気に入った。鏡の上にかけてあるほこりよけの布は、舞妓の絵と松嶋隠岐という字が染められている特注品だ。
「明日からは俺の楽屋に鏡台を置いていいぞ」
「おおきに、お兄さん!嬉しおす。ほんまきれいやわ……」
 隠岐は、これから何十年も付き合うことになるだろう自分だけの鏡台に、心の中でそっと挨拶した。
 実はこの鏡台は六十万円もする代物で、錦之助は三ヶ月前から職人に注文して金に糸目をつけず最高のものを作らせたのである。そんな高いものをぽんと弟子に買い与える師匠などこの世界には他に存在しないだろう。しかし、隠岐の中では、錦之助の寵愛のありがたさよりも役者として舞台に立つことへの喜びが先に立っていた。
 さて、翌日の新聞には、すい星のごとく現れた十五歳の女形の話題がさっそくとりあげられていた。
『今月の歌舞伎劇場の見どころは、なんといっても初舞台の松嶋隠岐であろう。十五歳の美少年をいきなりひとり舞台で踊らせるというシンデレラ作戦には、若い観客層をひきつけようという河村座がわの意図が見えかくれしている。とにかく彼については、京都出身であること以外、われわれは何者なのかも知らされていないのだ。しかし彼の舞台は、事務所の思惑や素性などどうでもいいではないかと思わせるほどの出来ばえであった。いままでにこんなにみずみずしい才能が歌舞伎の舞台に上がったことがあっただろうか。松嶋隠岐を発掘した松嶋錦之助に拍手をおくるとともに、少年の素直な成長を願ってやまない』
 しかし、世間の評判とはうらはらに、歌舞伎劇場の楽屋の空気は一気に緊張をはらんだものとなった。

十三、

 なんとか初舞台の初日を終えた翌朝、楽屋の入り口を一歩入った隠岐は、すぐに妙な空気に気づいた。
 草履を脱いで自分の下駄箱にしまおうとすると、そこにあるはずのスリッパがなくなっている。隠岐は、どこにでもありそうなスリッパだから誰かが間違えて持って行ったのだろうと思い、来客用のを借りて履いた。
 錦之助にはぐれないように人の合間を縫いながら混雑した廊下を歩いていると、ひとりの若い女形が、すれ違いざま隠岐の耳にささやいた。
「すばり」
 隠岐はパッと振り返ったが、もうその女形は影もかたちもなかった。
 それにしても聞いたことのない言葉だ。どういう意味なのだろうか。
「あの、お兄さん、聞いてもよろしおすか」
 隠岐は前を行く錦之助をつかまえた。
「何?」
「すばりってどういう意味?」
 錦之助はさっとあたりを見まわすと、隠岐をひとけのないところへ引っ張って行った。
「その言葉誰に聞いた?」
「わかりまへん。通りすがりの人が言うてきた。うちの耳のそばで」
 錦之助は仁王のような恐ろしい顔になった。かなり怒っている。
「悪い言葉だから二度と口に出すな」
「でも、どういう意味どす?」
「……狭い、って意味だ。もうこの話は終わりだぞ」
 狭いとは、器量が狭いという意味だろうか。隠岐は首をひねった。錦之助の態度からすると、かなりの悪口らしいことはわかる。知らない方がいいのかもしれない。隠岐はもうこのことは忘れようと思った。
「おはようございます」
 通りすぎる人々はみなふたりに頭を下げた。今までは錦之助にしか挨拶しなかった人も隠岐に向かって挨拶してくるほどだ。しかし、
「おはようさんどす」
 と笑顔で答えても、相手はすっと伏し目になって通りすぎて行くだけで、誰一人隠岐の顔を見ようとしない。ふつう挨拶をすると清清しい気分になるものだが、これではかえって無視されたようで嫌な気持ちになってしまう。
 だんだんいら立ってくるのを抑えながら錦之助の後ろを歩いていると、急に背後から、
「あっ!」
という声がして、隠岐の右の肩から二の腕にかけて熱いものがびしゃっとかかった。
「熱っ!!」
 反射的に叫んで飛びのく。
「だ、大丈夫ですか!?すみません、すみません、……」
 紺のエプロンをつけた蕎麦屋のアルバイトが目をまるくしてあたふたしている。床にはきつね蕎麦がぶちまけられていた。
 隠岐は、事態に気づいた錦之助に飛びかかられ、熱い汁をたっぷり吸った浴衣をひき脱がされた。
「火傷してないか?」
 ぐいと腕をとられ、なめるように肌を見られて、
「風呂場で冷やそう」
 と有無を言わさず引っ張って行かれる。今日は朝からついてないことばかりだ。
 だが、「ついてない」などと思っているのは隠岐だけだった。
 錦之助は夜叉のような顔を青白くして怒りに怒っている。
 耳元で“蔭間”と悪口をささやくのも言語道断だが、熱い蕎麦をひっかけるとは。あの蕎麦屋は、ただつまずいて蕎麦をひっくり返したのではない。誰かにわざと隠岐の方へ向かって突き飛ばされたのだ。もちろんスリッパは故意に隠された、あるいは捨てられたに違いない。皆が隠岐によそよそしいのも、顔を合わせないようにと触れを出した人物がいるからだ。
 錦之助は絶対に許せなかった。蓬莱屋の若旦那の弟子に嫌な思いをさせたらどうなるか、一度思い知らせておかなければならない。ましてや隠岐はたんなる弟子という以上の存在だということは、この楽屋にいる人間なら皆知っているはずだ。
 錦之助には心当たりがあった。他人のスリッパを持ち去っても下駄番のおじさんにとがめられず、楽屋中の役者に隠岐を無視させる力を持ち、隠岐に恨みを抱いていそうな人物。それは従弟の菱川鶴吉以外には考えられない。
 流水で隠岐の肩を冷やし、自分の予備の浴衣を着せてやると、錦之助は、鶴のつがいを染めた若葉色ののれんを無言でくぐった。
「あっ裕之兄さんいらっしゃい。ちょうどいいところに来た、さっきねえ、三智子おばちゃんがさし入れに翠屋のコーヒーゼリー持ってきてくれたの。好物でしょ」
 鶴吉は上機嫌で首をぬりたくっている。三智子というのは、磨里の母親で元映画女優の高島三智子のことだ。
「一言だけ言いに来た」
 錦之助はつれなく言った。
「なあに、怖い顔して」
「今度あんなことをしたら、お前とはこんりんざい一緒に仕事もしないし口もきかない。絶交だ」
 鶴吉は化粧をやめ、錦之助のほうを向いて膝立ちになった。ショックのあまり口が半開きになっている。
「な、なにそれ?なんの話?いきなり絶交なんてひどい、兄さん……」
 鶴吉の声は裏返り、目には涙がたまっている。鶴吉は心底錦之助を愛しているのだ。
 だが錦之助は冷え冷えするような低い声で決めつけた。
「しらばっくれるんじゃねえ。隠岐は俺の大切な弟子だ。あいつを傷つけるのは俺を傷つけるのと同じだ。覚えとけ」
「あたし知らない、隠岐ちゃんになにかあったの?ねえ、ほんとに何もしてないってば」
「二度と隠岐にちょっかい出すんじゃねえぞ」
「だから何の話よ!あたし関係ないわよ、信じて!」
 畳にはいつくばる鶴吉をそのままに、錦之助は楽屋を後にした。
 その日の夕方六時ごろ、隠岐は二度目の『羽根の禿』を踊るために準備をしていた。今日こそは失敗せずに踊ろうと気合を入れて真新しい鏡台の前に座り、新品の化粧道具を開ける。袖を脱ごうと浴衣の中に手を引っ込めたそのとき、誰かが楽屋を訪ねてきた。
「入りますよ」
 隠岐は脱ぎかけた手を元に戻して立ちあがり、応対に出た。
「どちら様ですか」
「あたしゃ三階のもんだけどね。……いやいやここでいいよ」
 化粧をしていないその役者は、しわだらけの顔が黒光りして眉毛がなく、奇妙な肩つきと腰つきで一目でおかまとわかる六十がらみのベテランだった。
「ただいま錦之助は出ておりますが」
「用があるのは若様じゃなくてあんたさ。その鏡台」
 と指差して、
「いったいどういうつもり?」
 と偉そうな口ぶりで聞いてきた。
「どういうつもりて……お兄さんが、いえ、若旦那がお祝いに下さって、ここに置くようにて言わはりましたさかい、使わしてもろてますけど」
 年取った三階役者は、信じられないというように、ない眉をひそめた。
「あんたいったい何者なの?錦四郎の旦那の隠し子?」
「はあ?」
 隠岐は面食らった。初対面の人に向かって隠し子かと尋ねるなんて非常識にもほどがある。
「いくら若様の愛人でもね、分際をわきまえないとこの世界生きていけないわよ」
 わけ知り顔な言いざまに、隠岐はすっかり頭にきた。
「なんでうちがおたくらに隠し子やら愛人やら言われなあかんのどす?ほんま、かなんわ……」
 老け女形はぎょっとした顔をした。おとなしく黙っているとでも思っていたのだろうか。そのまぬけ面が小気味よく、隠岐は少しだけ気が晴れた。
「ふん、先輩にそんな口きいてただですむと思ってんのかい?まったくここのお師匠様はどういうしつけをしてるのかね」
 錦之助まで悪く言われて隠岐はカッと血が上ったが、まともに相手をすると分が悪いので、追い返すことにした。
「すんまへんけどうちは仕度がありますさかい出直しておくれやす」
「言われなくてももう用はないよ。せいぜい若様のご機嫌をとって、捨てられないようにするんだね」
 男は思いきり卑猥な口調で捨て台詞を吐くと、出て行った。
 隠岐は力いっぱい座布団をひっぱたいた。
 そのころ、高島磨里は、楽屋食堂で恋人の三味線弾き・松風保次郎とラーメンを食べていた。恋人同士の食事にしては色気がないが、この楽屋食堂はまずいことで有名で、食べられるメニューといってはラーメンしかないのである。
 ふたりがくだらない他人の噂話をしているところへ、親戚であり親友でもある菱川鶴吉がふらりと食堂に入ってきた。さびしがりやの鶴吉がひとりで夕食を食べるなどありえないことである。
 鶴吉はぼうっとしていて親友の姿にも気づかず、しなしなと磨里たちのテーブルを通りすぎようとした。
「おい」
 磨里は、鶴吉の腰の帯に挟み込まれた赤い根付をつかんだ。
「こんなもんチラつかせて、どうしたの?裕之ひとすじじゃなかったんだ」
 腰に赤いものをつけるのは、オカマが相手を募集しているときの万国共通のサインである。
「まりちゃん……」
 鶴吉はくずおれるように空いた椅子に座りこんだ。
「裕之兄さん、あたしが隠岐ちゃんに意地悪したって言うの。今度やったら絶交だって」
「へえ、絶交……そりゃ落ちこむね」
「でも、誤解なんだろ?説明すればわかってくれるんじゃないか?」
 あまりに気落ちしている鶴吉をはげまそうと、保次郎が言った。保次郎はひどく体格が良くて、気持ちのやさしい好青年である。それだけに人のよすぎるところもある。
「何言ってんのヤス」
「誤解じゃないの保次郎さん。あたしがやったの。スリッパ隠したり、蕎麦屋を隠岐ちゃんのほうに突き飛ばしたり」
「ひでえ……」
「そのくらいやるわよふつう。ねえまりちゃん」
「なんとも言えません、僕は」
「もう、いい子ぶっちゃって。だからね、あたしね、もう裕之兄さんには好きになってもらえないの」
 言うなりテーブルに顔を伏せて泣き出す鶴吉を、磨里と保次郎は呆れ顔で見つめた。

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