京鹿子恋山路 阿古屋編

名古屋あき

十四、

さまざまな人の思惑と感情がうずまくうちに、どうにか事もなく初舞台興行は終わり、八月になった。
 八月一日、芳田家は一家全員で京都の朝子の実家に移った。今月は、京都・河原座の納涼歌舞伎に出演することになっているからである。
 嵐山にある朝子の実家は浄土宗の善興寺というお寺で、朝子の父と弟が住職を務め、母と嫁が裏をとりしきっていた。東京から芳田家がやってきたことで四人家族が一気に九人に増えたわけだが、部屋が五つもあるうえ、門徒の集まる座敷や本堂があるのでまったく狭苦しさはない。杉の板を張った広い本堂は真昼でもひんやりと心地良く、子供たち三人はそこで寝ることになった。子供たちとは、言うまでもなく錦之助・聡子・隠岐のことである。
 四ヶ月ぶりにおじいちゃんとおばあちゃんの家に来たというのに、錦之助は荷物を片付ける間も惜しんで、本堂で『連獅子』の稽古を始めた。
 今年の納涼歌舞伎の『連獅子』は、すでに巷で評判が高く、チケットも完売状態であった。というのは、錦四郎・錦之助の美形親子共演であるのみならず、今回は特別に長女の聡子が胡蝶の役に出演するからだ。八月は高校が夏休みということで出演することになったのだが、聡子が歌舞伎の舞台に出るのは六歳のとき以来九年ぶりで、女性の聡子が歌舞伎に出られるのはこれが最後のチャンスである。ついでに、隠岐も胡蝶の役で初めて故郷の舞台に立つことになっていた。
 胡蝶という役は、主役の狂言師左近と右近が勇壮な二匹の獅子に早替わりしている間のつなぎに踊る、かわいらしい役だ。二人立ちの踊りで、鏡のように同じ振りを踊る。ふつうは小学生くらいの子役がつとめる役だが、聡子も隠岐も百五十センチと小柄だから何の違和感もない。
 本堂の阿弥陀如来像の前で額に汗を滴らせながら稽古にのめりこんでいる錦之助を無視して遊びに行くわけにも行かず、隠岐はしかたなく錦之助のために曲を唄ってやっていた。前半の狂言師の踊りが終わると、錦之助は、
「お前らも稽古しろ」
 と言う。お前"ら"、というのは聡子を呼んできて一緒に踊れということを意味している。
「うち一人やったらあきまへんか?」
「だめ」
 隠岐は溜息をついた。聡子は最近ますます女らしく可愛くなり、踊りも生来筋がいいうえに出雲清十郎の熱心な指導を受けてぐんぐん成長している。そんな彼女と二人で同じ振りを踊って比べられるのは、隠岐にとってかなり恥ずかしいことだった。実は、聡子のほうも、天才女形の美少年と比べられるのはまっぴらだと思っているのだが、そんなことは知る由もない。
 大家族が全員集まっての夕食は、さながらパーティーのようだった。ビール瓶がずらりと並べられ、鶏の唐揚げやポテトサラダ、たけのこの煮しめ、鯛のアラ炊き、最後にはデコレーションケーキまで出てきた。錦四郎は調子に乗ってカラオケを披露し、家族のひんしゅくをかっていた。隠岐はなかなかうまいと思ったのだが。
 翌八月二日、河原座初日。
 季節は夏本番、まだ午前十時前とはいえ、クーラーなど効かない蒸し暑い楽屋には、白粉とびんつけの臭いが充満して息苦しいほどだ。
 その楽屋口に、この劇場ができて以来かつてない現象が起こっていた。
 本格的に化粧をし、割れしのぶにかんざしを飾った舞妓、芸妓たちがずらりと列をつくっているのだ。まるで祇園中の置屋から集まってきたかのような大人数である。
「松嶋隠岐はんいはります?」
 代表者の芸妓から優雅に聞かれて、下駄番のおじさんは目をまるくした。
 この芸妓たちは全員、『広亭』のぼんの隠岐に会いに来たのだった。これだけの芸妓を揚げようと思ったら数百万の単位ではきかないだろう。初舞台を終えたばかりの十五歳の子供に、こんなに大勢くろうとのファンがいるとは誰も思わないに違いない。
 下駄番のおじさんは、ちょうどそこを通りかかった聡子に、隠岐を呼んで来てくれるよう頼んだ。
 聡子は従弟で幼馴染の鶴吉の楽屋に遊びに行こうとしていたところだったのだが、快く引き受けて兄と隠岐の楽屋をのぞきこんだ。
「隠岐さん、いる?」
 答えたのは錦之助だった。
「いま涼之助の兄さんのところだ」
 涼之助は今月、女形の難役『阿古屋(あこや)』をつとめることになっている。阿古屋は琴・三味線・胡弓の三曲を実際に舞台の上で弾かなければならないという、女形としては最高の教養を必要とされる役である。歌舞伎に女形多しといえども、この役ができるのは彼だけであろうと言われていた。
「ふうん。隠岐さんをひとりにするなんてめずらしい」
「何言ってやがる。九月に『番町皿屋敷』のお菊をさせるから、兄さんにセリフの稽古頼んだんだよ」
「えーっ、すごい!播磨は誰がやるの?」
「俺だ」
 当然至極と言わんばかりの口調である。播磨はお菊の恋人であり、このカップルが芝居の主役なのだ。錦之助にしてみれば他の役者にやらせてたまるかというところだろう。
 旗本の青山播磨と女中のお菊は相思相愛の仲だが、身分違いが唯一の障害である。そこへ播磨が他の女と結婚するという噂が流れ、疑心暗鬼になったお菊は、家宝の十枚組の皿を割って播磨の心を試す。播磨は皿を割ったことを許し、二人の愛を確認するが、お菊が自分を疑ったことを知るやいなや激怒してお菊を殺す、というのが大方の筋だ。
「野暮なこと聞いてごめん」
 聡子はにっと笑って涼之助の楽屋へと向かった。兄の浮ついた気持ちがひしひしと伝わってくる。聡子は知っていた。この芝居の見せ場のひとつに、播磨とお菊のキスシーンがあることを。錦之助が隠岐の初めての芝居に『番町皿屋敷』を選んだのは、聡子から見れば兄の策略としか思えなかった。
「おはようございます、聡子です」
 紫ちりめんののれんをくぐると、中では真剣な稽古の真っ最中だった。
「発声がおかしいのよ。無理して裏声出す必要ないの。隠岐ちゃんもともと声が高いんだから、ふつうにしゃべりなさい」
「はい」
「あらさっちゃん、いらっしゃい」
 涼之助は聡子に気づいてにっこりと笑いかけた。美人女形のやわらかな色気がふわりと広がる。
「お稽古中すみません。隠岐さん貸していただいていいですか?楽屋口に舞妓さんたちがいっぱい来てて……」
「へえ、すごいじゃない隠岐ちゃん。役者冥利につきるわよ」
 涼之助はにこにこ笑ってそう言ったあと、急に軽い咳をしだしたかと思うと、異常なほどに激しく咳き込み始めた。隠岐がびっくりして背中をさすっても、なかなか発作はとまらない。
「聡子ちゃん、誰か呼んで来て!」
 聡子が飛び出して行ったとたん、涼之助は畳の上にがぼっと血を吐いた。
「涼之助はん!」
 隠岐は血を見て動転してしまい、涼之助の体を抱きかかえるようにしながらおろおろするのが精一杯だった。
「兄さん、どうしました?」
 大股で飛びこんできたのは錦之助だった。錦之助は素早く涼之助の帯をゆるめ、痩せた体を抱え上げて外へ運び出した。救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえる。
 廊下へ出ると、血相を変えた錦四郎が走ってきて息子の腕から慎重に涼之助を抱き取り、楽屋口に止まっている救急車へ運んだ。舞妓やら芸妓やらが周りからのぞきこみ、たいへんな混雑である。
「ねえさんがた、すんまへんけど、いま取り込み中どすさかい、出直しておくれやす」
 ひと声で女たちを追い帰した隠岐を、下駄番のおじさんは呆れ顔で見ていた。役者にとって、花柳界の客はもっとも大事にしなければならない類の客である。
「隠岐、容態を説明しろ」
 錦之助が救急隊員のほうに隠岐を押しやった。
「へえ。ついさっきまでふつうに話してはったんどすけど、急に咳き込みだして、血ィ吐かはって……」
「わかりました。京大病院に運びますよって」
「お頼み申します」
 救急車にはマネージャーの女性が乗りこんだ。役者は舞台があるので劇場を離れられないのだ。錦四郎は悔しさと心配のあまり体を震わせている。こういうときの、眉間にしわを寄せた真剣な表情は錦之助にそっくりだ、と隠岐は不謹慎にも見とれていた。
 しかし涼之助は大丈夫だろうか。何より、舞台はどうなるのだろう。阿古屋の代役など誰もできないに決まっているのに……。
 錦之助はいきなり隠岐の腕を取り、小声で聞いた。
「お前、地唄が得意だって言ってたよな。阿古屋の三曲弾けるか?」
「は?」
「三曲弾けるかって言ってんだよ」
「そら弾けますけど……」
 祇園の舞妓や芸妓はみな大の歌舞伎ファンなので、帯屋のまねと称してしきりに阿古屋の三曲を練習するのだ。もちろん隠岐も小さい頃からそれを聞いて育ち、琴も三味線も胡弓も目をつぶって弾けるくらいまで身についている。
 隠岐は悪い予感がした。
「『阿古屋』は夜の部の最後だからだいたい八時くらいか。いま十時ってことはあと十時間あるな」
 錦之助は何やら忙しく頭を働かせている。
「家に電話してビデオ持ってきてもらおう。それでだいたい覚えて、『連獅子』が終わったらすぐ病院に行くと二時には出られる。それから七時二十分にこっちに着けばいいから逆算して……」
 独り言を聞きながら、隠岐はますます不安になった。
「稽古時間は四時間半、か」
「お兄さん?」
 錦之助は、絶対に逆らわせないぞという気迫の両眼で隠岐を見下ろした。
「お前がやるんだ。兄さんの代役」
 悪い予感が的中した。目の前が一瞬暗くなったが、隠岐は負けじとにらみ返す。
「そんなん無理どす。できまへん。お兄さん、ようわかってはりますやろ?」
 聡子と並んで胡蝶を踊るだけでも重荷なのに、見たこともない大役をぶっつけ本番でやらされるなんて、冗談ではなく死にたくなってしまう。
「大丈夫さ。阿古屋は動きもセリフも少ないし、三曲さえ弾ければ格好だけはつく。夜の部のお客様は三曲目当てでいらっしゃってるんだから、阿古屋は中止になりましたじゃあ申し訳が立たないだろ?それにお前、このチャンスを無駄にする気か?」
「そいけどうちにはできまへん!まだセリフしゃべったこともおへんし」
「そんなのはこれから教える。お前は俺の言うことを聞いてりゃいいんだ。つべこべ言ってる暇があったら稽古するぞ!」
 隠岐は楽屋へひきずられて行った。蓬莱屋の番頭と男衆は、隠岐の思いをよそに、錦之助の指図を受けて家や病院へ電話したり大名題と談判したり、着々と準備を進めていく。錦之助はきつく隠岐の肩を抱き、逃げられないように見張っていた。
 そのころ、劇場ロビーには、「『阿古屋』阿古屋役・菱川涼之助病中に付、松嶋隠岐代役相勤め申候」と書かれたポスターが貼り出されていた。

十五、

 菱川鶴吉は涼之助が血を吐いて救急車で運ばれたという騒ぎを知らなかった。なぜなら、まだ劇場に向かっている最中だったからだ。着いてみると、楽屋じゅうが騒然として、皆青い顔をしている。
「どうしたの?」
 鶴吉は自分の父親の古い弟子をつかまえて聞いた。その弟子は、以前隠岐の楽屋へわざわざやってきて文句を言っていった女形だ。
「ぼっちゃん、やっとおいでなさいましたか。早く仕度してください。帯屋の旦那が倒れられて、琴浦はぼっちゃんがなさることに決まったんですよ」
 早口でまくしたて、鶴吉を楽屋に押しこむ。
 涼之助は、昼の部の最初の演目『夏祭浪花鑑』の傾城琴浦という役をつとめるはずだったのだ。たまたま鶴吉が前の月に東京で同じ役をつとめていたため、即座に代役に決まったというわけである。
「帯屋が倒れたって、心臓病?」
 涼之助に心臓の持病があることは有名だった。発作で今回のように急に倒れたことも何度かある。
「いえ、血を吐いたそうですよ。帯屋も体が弱くなければねえ……近頃は月に四役も五役もやってらしたから無理が重なったんでしょう」
 鶴吉はシャツとズボンを脱いで楽屋着に着替え、鏡台の前に座った。開演まであと三十五分しかない。
「そういえば帯屋の兄さん、今月は阿古屋でしょ?どうなるの?」
 芸名を菱川鶴弥という年取った女形は、そこで露骨に顔をしかめた。
「それなんですよ!あたしゃちょっと信じられないんだけど、あの隠岐って子にやらせるんだそうですよ。錦之助のぼっちゃんのごり押しらしいんだけど、重忠(注:『阿古屋』の主役のひとり)は錦四郎さんだからそりゃ息子の言うことは聞くわよねえ。まあほんとに信じられないわ、あんな子供が阿古屋をやるなんて」
 鶴吉の耳には、鶴弥の述懐など聞こえていなかった。隠岐が阿古屋をやる。しかも錦之助がやらせようとしてる……その事実があまりにも大きすぎて、他のことが心から締め出されていた。
 阿古屋は、あらゆる女形の役のなかでも、演じる人間を選ぶ特殊な役だ。普通の女形が、一生のうちにこの役をやることが許されることはまずないと言っていい。それは三曲を演奏するという技術的な難しさのためだけではない。遊女の最高位に位置する品格、子を宿している女のやわらかさ、夫の居場所を言うくらいなら殺せと身を投げ出す潔さ。芸の大きな役者でなければつとまらない役なのだ。
 鶴吉は小さい時からこの役をやるために三曲の稽古をさせられていた。当然、憧れている。将来涼之助から阿古屋を引き継ぐのは自分だという自負がある。
 それを、自分より先に、このあいだ初舞台を踏んだばかりの隠岐に演じられてしまうのだ。鶴吉は爪が肉に食い込むほどこぶしを握りしめた。
「ちょっと、行ってくる」
「だめですよぼっちゃん、もう時間が……」
 鶴吉は鶴弥の手を振り払い、楽屋を飛び出した。
 連獅子にちなんで赤い牡丹に蝶が舞っている柄ののれんが掛かっている錦之助の楽屋に駆け込むと、中では錦之助が隠岐の首根っこをつかまえて台本を読ませているところだった。
「裕之兄さん!」
 白い面長の顔の目元を赤らめ、恨みをこめて叫んだ鶴吉に、
「うるせえ。後にしてくれ」
 と錦之助は振り向きもしない。鶴吉は草履をぬいで上がりこみ、二人の間に割って入った。
「なんでこの子が阿古屋であたしが琴浦なのっ?こんなガキが阿古屋なんてできるわけないじゃない!」
「できるかできないかは見てのお楽しみだ」
「絶対やめさせるからね。いくら錦四郎のおじさんが重忠でも、幹部には逆らえないでしょうから」
 錦之助の顔がぐっと厳しくなった。
「無駄だと思うぜ。こっちは涼之助兄さん本人からの御指名なんだ。悪あがきはよして早く琴浦の仕度しな」
 鶴吉が言葉につまったところへ、隠岐がすがるような目をして話しかけてきた。
「鶴吉はん、お願いします。うちも阿古屋なんてやりとおへん。どないしてもやめさせておくれやす」
 鶴吉は意外な言葉に驚いたが、すぐそれを逆手にとって錦之助を攻めた。
「ほら隠岐ちゃんだってやりたくないって言ってるじゃない。無理なことやらせようとしたってかわいそうよ」
 するとなんと、隠岐は畳に手をついて、
「もっと言うてください」
 と黒い瞳をうるませ必死に見上げてくるではないか。鶴吉はほくそ笑んだ。隠岐さえやる気にならなければこっちのものだ。
「初舞台踏んだばっかりなのに、あんな大役、怖いのは当たり前よ。隠岐ちゃん、安心して。あたしがやめさせてもらったげる。あんまり気の毒だもの」
 だが、隠岐が鶴吉に助けを求めたことは錦之助を激昂させた。
「隠岐!まったくお前はなんにもわかっちゃいねえ!」
 そして眉を吊り上げて鶴吉を睨みつけ、
「貴夫、隠岐に阿古屋をやめさせて、お前自分がやるつもりなのか?うぬぼれるのもいい加減にしろ。今ここで三曲弾けっていっても弾けねえくせに」
「弾けるわよ!」
 鶴吉はむきになった。しかし、実はまだ完璧には弾けない。自分に阿古屋がつとまらないことは知っているが、とりあえずは隠岐に先を越されたくないだけなのだ。
「お前が三味線下手なのはよく知ってんだよ。ほら、もうあと二十分しかないぞ」
 本当だ。もう客席には半分以上客が入っているだろう。衣裳を着る合図の柝が鳴った。
「どうせあたしは下手ですよ。でもそんなむちゃくちゃなことして、どうなったって知らないからね!」
 鶴吉は泣きそうになりながら楽屋の廊下を走った。
 錦之助の、自分を見る目が変わった。以前はちょっとうるさがりながらも年下の従弟としてかわいがってくれていた。それなのに、さっきの恐ろしい睨みつけ方は、はっきりと鶴吉を敵視している。それに、他人に面と向かって下手だと言い切るなんて……少し前まではそんな配慮のない男ではなかった。
 あの子のせいだ。錦之助が鬼になっているのは隠岐を守るために違いない。あんなどこの誰かもわからない子のために錦之助の人望が下がったりしたら、なんともったいないことか。錦之助の将来をだめにする害虫をやっつけて彼を守れるのは自分しかいない。鶴吉は、そう考えて心を奮い立たせた。
 『夏祭浪花鑑』に続いての『連獅子』は、大喝采をあびた。錦四郎は、最愛の人が倒れた直後とは思えない気迫のこもった丁寧な踊りを踊り、特に最後の獅子の風格は、さすが日本を代表する役者と評論家たちをうならせる出来ばえだった。錦之助の子獅子も、いつもながらの教科書的完璧さに加えて、夏の暑さも吹き飛ばす爽やかなイキのよさで、錦四郎と丁丁発止、芸の火花を散らしていた。そして聡子と隠岐の胡蝶は、出てきたとたん溜息と歓声が起きるほどの美しい一対だった。踊りの技術は確かな二人だから、間も形もぴたりと合って、この世のものとは思われない夢幻の世界を創り出した。
 舞台はうまくいったが、出番が終わると、隠岐は一気に気が重くなった。これから阿古屋を教わるために涼之助の入院している京都大学付属病院へ行くのだ。
 舞台を終えて急いで楽屋に帰ってきた錦之助と風呂に入り、浴衣に着替えて、待たせてあったタクシーで病院に向かう。車の中で朝子の心づくしのおにぎりを食べたのが今日の昼食だ。
 涼之助の寝ている個室にたどり着いたのは、午後二時半だった。
「声帯ポリープですよ。たいしたことはありません。ただ、手術をしますので二週間ほどは声が出せなくなります。その間は舞台を休んでいただかなくては」
 三十代後半ぐらいの、いかにもやり手そうな女医が説明して、出て行った。
「裕君、隠岐ちゃん、ごめんね、迷惑かけて……」
 涼之助はかすれた声で言い、ちょっと咳き込んだ。
「兄さん、喋って大丈夫なんですか?のど、痛くありませんか?」
「大丈夫。手術したら喋れなくなるっていうから、今日できるだけ喋っておかなくちゃ」
 そう言って弱々しく微笑むと、すうっと消えてしまいそうなはかなさが漂った。
「隠岐に、阿古屋の代役をさせたらどうかと思うんです」
「うん、うちの番頭から聞いた」
「お体にさわらない程度でいいですので、教えていただけますよね?」
 涼之助はにっこりとうなずいた。
「心配ないわ。裕君、先に劇場に帰っていらっしゃい。三幕目に出番あるんでしょ」
「じゃあ、失礼します。隠岐、しっかり教われよ」
「お兄さん……」
 隠岐は、病室を出て行く錦之助に向かって情けない声をあげた。
「隠岐ちゃん、さっそくだけど始めましょうか。どこまで覚えた?最初からやってみて。『きりきり歩〜め〜』はい」
 狭い病室を花道に見たて、花魁が一歩ずつ歩んで行く。
 平家の武将、悪七兵衛景清の妻である遊君阿古屋は、源氏方に捕らえられ、夫の居場所を白状するようにと拷問を受ける。その拷問というのが、琴・三味線・胡弓を弾くことなのだ。嘘をついていると音色が乱れることを知っている粋な裁判官、重忠のはからいである。
 稽古をしているうちに、隠岐は心細さに耐えきれなくなって、リノリウムの床にしゃがみこんだ。
「やっぱりうちにはできまへん。お兄さんはがっかりしはるやろけど、やっぱり、他の人に代わってもろたほうがええのんとちがいますやろか」
 涼之助はベッドの上から手を伸ばして隠岐の柔らかい髪を軽くなでた。
「他の人には無理よ。いま私の代わりに阿古屋ができるのは隠岐ちゃんだけなの。なんてったってたったひとりの弟だもの」
 隠岐はしばらくその意味がわからずにいた。
「へ?」
 涼之助は驚いた顔をして隠岐を見つめた。
「もしかして、知らなかった?あら……ごめんなさい、こんな時に重大なこと教えちゃって。あたし、みんなに怒られるわね。聞かなかったことにして」
「聞かなかったことにって、そないなことできるわけあらしまへん!どういうこと?うちが涼之助はんの弟て、ほんまどすの?」
 隠岐は急に思い出していた。役者になると言ったときの初子の驚き。母親の名は佳りんだと聞いたときの朝子の意味ありげな表情。それらがいま、おぼろげながらつながったような気がする。
「この際だから全部話すわね。あなたのお母さんはうちの父の最後のひとだったの。あなたが生まれる前に、父は亡くなったのだけど。だから隠岐ちゃんは三代目菱川友十郎の息子で、私の腹違いの弟。……錦四郎のお兄さんからあなたが裕君の弟子になったって聞いたときは驚いたわ。縁は異なものね。でも裕君は知らなかったと思うわよ、錦四郎さんが教えるまでは」
 隠岐はやっと、何もかもが腑に落ちた。初舞台から大役で口上を述べたわけも、すんなりと阿古屋の代役に決まったわけも。
 知らなかったときは素人の子としてのんびりやっていればよかったが、知ってしまったいまは、帯屋の血筋をひく者として恥ずかしくない舞台をつとめなければならない。
 隠岐の阿古屋は、ますます大変なことになった。

十六、

  夕方六時になって、錦之助が病院に迎えに来た。
「もうそんな時間?じゃあ隠岐ちゃん、いま言ったことだけちゃんとやれば大丈夫だから。絶対できるから心配しないの。裕之君、よろしくお願いね」
「はい。長い時間どうもお世話になりました、ありがとうございました」
 錦之助は隠岐に頭を下げさせた。
「では明日またお見舞いにうかがいます」
「私のお見舞いなんていいからしっかり勉強しなさい。やだ、年寄りみたいなこと言っちゃった」
 涼之助はかすれた声で楽しそうに笑ったが、内心は舞台に出られないことが悔しくてたまらないに違いないのだ。まして今回は、たいへんな苦労のすえ現在は自分だけが演じられる役にまで高めた阿古屋を、弟とはいえ素人同然の役者にやらせなければならないのだ。錦之助には、その気持ちは察するに余りあった。
 涼之助は、子供の頃から、持病の心臓病のせいでたびたび休演を強いられてきた。大きな役を人に譲らなければならなくなるたびに、絶対安静のベッドの上で悔し涙をのんできた。そんな経験が涼之助に人徳を備わらせ、愛される花女形にしたのである。
 隠岐は、タクシーで劇場へ戻るあいだ一言も口をきかなかった。しゃべった拍子にいままで必死でつめこんだセリフや動きが頭の中から抜け落ちてしまいそうだったこともあるが、口を開けば自分の出生の秘密のことをなぜ教えてくれなかったのかと問い詰めてしまいそうで怖かったからだ。いまは阿古屋に全神経を集中すべき時である。油断すると心を占領しそうになる帯屋の血筋のことを、隠岐は無理やり頭の隅に追いやっていた。
 楽屋に着くとすぐに衣裳合わせにはいった。涼之助も小柄な役者だが、隠岐に比べれば十五センチは身長が高い。いまからサイズを合わせていたのではとても間に合わないというので、急遽、昔の役者が使っていたという裲襠(うちかけ)を取り寄せた。
「これは涼之助さんの亡くなられたお父さんの菱川友十郎さんの衣裳だよ。いい役者だったよ……見たことないだろ、その年じゃ。阿古屋なんて、ほんとにこの世のものとは思えなかったねえ」
 いまは聞きたくないことを、着付けのおじさんが親切に説明してくれる。
「そうどすか」
 隠岐はうわの空で返事をした。
 しかし、亡き父の重い裲襠をまとったとたん、不思議なことに迷いがふっと消えた。
 阿古屋は身に過ぎた役かもしれない。だが、遠慮などする必要はない。自分はそれを演じるために生まれてきたのだから。
 友十郎の衣裳はまるであつらえたかのように隠岐の体にぴったり合った。寸法を確認したところでいったん脱いで、化粧にとりかかる。といっても隠岐は人形のように座布団に座っていればよく、錦之助が全部やってくれた。眉を描くときや唇に紅をさすときになると、錦之助の真剣な表情が鼻先に迫り、隠岐は息もできないような気がした。
 何十キロもある重たい衣裳を身に着けたら、最後は鬘だ。鬘は大きさの変更がきかないので自分の頭のほうを合わせるしかない。幸い、頭の大きさは涼之助とそれほど変わらず、痛い思いをせずにすんだ。
 島原の全盛の花魁の衣裳をつけた隠岐は、周りの人が道をよけるほど神々しく、まるで幼い時から舞台に立ってきた御曹司のように、自然な主役のオーラを放っていた。
「隠岐さん、涼之助さんみたい」
 そっと楽屋の隅に座って見守っていてくれた聡子が、どきっとするようなことを言ってくる。そういえば、聡子は隠岐が涼之助の弟だということを知っているのだろうか。
 裲襠の扱い方を何度か練習したあと、一緒に舞台に出る役者・義太夫・長唄の人たちに挨拶し、花道の揚幕の中へと移動した。
「まな板帯(注:体の前面に垂れ下がった巨大な帯)があるから弾きにくいだろうけど、僕らでできるだけフォローしますから」
 三曲の伴奏の長唄をつとめる松風保次郎が声をかけてくれた。彼はあの高島磨里の恋人である。
「よろしゅうおたの申します」
 隠岐は意外なほど落ち着いていた。手順を間違いなくこなして三曲を立派に弾く。それが自分に期待されていることだ。芝居なんてできなくていい。いや、できないのが当たり前、とにかく舞台をとどこおりなく終わらせられればいいのだ。
 もう本舞台の幕は開いて、芝居は始まっている。錦四郎の堂々としたせりふ回しが揚幕の中にまで聞こえてくる。
 ついに出番がきた。
「きりきり、あゆーめー」
 という捕り手たちの合唱に続き、揚幕がシャッと小気味よい音を立てて開く。
 白く塗った素足を花道に踏み出すと、たちまちまばゆいライトが照りつけ、目の前の捕り手の鬘がきらきら光った。花道の中ほどで大きく裲襠を広げ、客席に後ろ姿を見せる。涼之助に何度も教わった形だ。
 本舞台に正面を向いて座ると、隠岐の耳にしっかりと、観客の感嘆の溜息が届いた。
「きれいね」
 思わず漏れたという感じのつぶやきも聞こえる。
 そのとき隠岐は急に気が付いた。観客にとっては、役者が阿古屋をつとめることはごく当たり前のことであって、役者の方が一夜漬けで自信がなかろうが初舞台を終えたばかりだろうがそんなことはまったく関係ないのだということに。もう、ここは自信を持って、名役者になりきって演じるしかない。
 途中で裲襠を二度ほど踏んでしまうというアクシデントはあったが、三曲は完璧に弾いて、隠岐はなんとか阿古屋を演じきった。
 幕が閉まると、思いがけないことに舞台の上の全員が隠岐のまわりに集まってきた。
「よくやったね。お疲れ様」
「上手にできました」
 口々にかけてくれるねぎらいの言葉に、ひとつひとつ「おおきに」と手をついて挨拶した。無事に終わったのと皆に認められた安心感で、だんだん胸がいっぱいになってくる。最後に錦之助が来て、舞台の上に座ったままの隠岐から重い裲襠を脱がせた。
「さ、早く着替えて家に帰ろう。稽古するぞ。この裲襠は借りて帰っていいそうだ」
 もうこの場にばったり倒れてしまいたいほど疲れているのに、帰ってからまた夜稽古だなんて、慈悲のない鬼の言うこととしか思えない。
「お兄さん、うち、くたびれてしもうた」
 錦之助は、情けない声をあげている隠岐を笑い飛ばした。
「まだ初日だぞ?楽(注:公演の最終日)まであと二十五回あるんだからな」
「涼之助はん、いつ戻ってこられるんやろか」
「さあな。ほら立って。大道具さんの邪魔になる」
 隠岐はひきずられるように立ち上がって、よろよろと楽屋に戻った。
 危うく眠りこみそうになりながら楽屋風呂を使い、着物に着替え、錦四郎を除く芳田家全員で駐車場に向かった。錦四郎は出番が終わるやいなや電光石火、涼之助の入院している京大付属病院に駆け付けている。今夜は帰ってくるかどうかわからない。
 楽屋口から外に出た途端、蒸し暑い夜の風と同時にカメラのフラッシュが激しく押し寄せてきた。
 隠岐はびっくりして棒立ちになった。
「松嶋隠岐さんですか?ちょっとお話を伺いたいんですがよろしいでしょうか」
 いつの間に集まっていたのか、七、八人のメモを持った記者たちが遠慮もなく寄ってくる。錦之助はさすがに慣れていて、
「記者会見の席は後日設けますので」
 と大きな声で説明しながら隠岐をガードして車に乗せた。しかし窓の外からもフラッシュをたかれ、隠岐は思わず表情がこわばってしまった。居心地の悪さは聡子も同じらしい。
「お兄さま、早く出して」
 錦之助の運転するベンツは、助手席に隠岐、後部座席に朝子と聡子を乗せ、下宿先の善興寺へ向けてひた走った。記者たちも、まさか車を追いかけてくることはないだろう。
「まったくマスコミときたら、こっちの都合なんて全然考えないんだから」
 朝子はバッグから手帳を取りだしながら愚痴を言った。
「冗談じゃなくて記者会見のこと考えなきゃいけないわね。京都観光ホテル、空いてるかしら」
 空いているかというのは、もちろん大広間のことである。
「こんなに早く隠岐ちゃんのマネージャーをすることになるとは思わなかったわ」
「すんまへん、おかみさん」
 常に似合わず興奮気味の聡子は、隠岐の座席のほうに身をのりだした。
「何で謝るの?私、隠岐さんがあんなにすごいなんて思わなかったー!たった何時間かしかお稽古してないのに、ほんとに最初から隠岐さんがやることに決まってたみたいに上手なんだもん。こんな天才がお兄さまのお弟子さんだなんて信じられないわ」
「悪かったな」
 口では言いながらも、錦之助はまんざらでもなさそうである。
 隠岐はあわてて否定した。
「そんな、天才なんかやおへんて。涼之助はんに言われたとおりやっただけ。それより今日、ごめんな、胡蝶。はっきり言うてうわの空やった」
「大丈夫大丈夫、踊り完璧だったからわかんないって」
「そうえいば今日、祇園の方たちが大勢みえてたけど、初子さんはいらっしゃったのかしらねえ。ぜひご挨拶したかったわ」
 広亭のおかみ初子は、隠岐の育ての親である。しかし隠岐は、いま初子に会ったらなんと言えばいいのかわからなかった。改めて思えば、初子は自分を菱川友十郎の息子として育ててくれたのだということがよくわかる。決して有り余っているわけではない家計の中から、毎日のように地唄や舞や鳴物の稽古に通わせてくれ、書道やお茶もみずから手を取って教えてくれた。それがいま、役者として生きていく上でどんなに役に立っていることだろう。阿古屋の代役を射止めることができたのも、初子のおかげだ。隠岐は、どんなことがあろうと時間を作って広亭に挨拶に行かなければならないと痛感した。
 ベンツは二十分ほどで善興寺に到着した。本堂には、気を利かせたお嫁さんがすでに布団を敷いてくれていた。
「これじゃあ稽古できねえな。布団を移動させるぞ」
 錦之助が振り返ると、隠岐はすでに着物のままタオルケットの中にもぐりこんでいた。
「何やってるんだ」
「お兄さん、一緒に寝ようよー」
 甘えきった子供のような声で誘う隠岐に、錦之助は絶句した。聡子が傍らでふき出している。
「寝るのは十二時まで稽古してからだ。あのまま明日も舞台に立つ気か?」
 いつもならここで言うことを聞くはずなのに、隠岐は、タオルケットを頭からかぶって聞こえないふりをした。大舞台を踏んで物怖じしなくなったのはいいが、師匠の言うことも無視するようになったのでは困りものである。
 錦之助はしかたなく実力を行使して、敷布団から隠岐をころげ落とした。
「痛い……」
「そこに座れ!」
 稽古のオマケに三十分間の説教がつき、隠岐は結局十二時半までみっちりしぼられたのである。

十七、

 次の日もまた次の日も、隠岐は阿古屋を演じた。不思議なことに、初日はあまり緊張しなかったのだが、回を重ねるごとにだんだん舞台が恐ろしくなってきた。前の日よりもうまくなければいけないというプレッシャーが重くのしかかり、失敗が許されなくなってきたからだ。初日には「よくできた」とほめてくれた錦四郎も、最近は終演後にこまごまと注意をしてくるようになった。それを翌日までに完璧にマスターしようと夜遅くまで稽古をするので、隠岐の体にはだんだん疲れがたまってきていた。
 八月九日。この日は京都観光ホテルで松嶋隠岐の記者会見が開かれる日である。
「聡子、もう帰るのか?」
 連獅子が終わったあとのちょっとした空き時間、錦之助の楽屋では皆が遅い昼食を食べていた。聡子はいちおう父親の楽屋を使っているのだが、いつもこちらに入り浸っている。
「ううん、これ食べたら美容院に行ってこようと思って。そのあとまた戻ってくるけど?」
「じゃあ隠岐も連れて行ってくれ。四時までには帰ってこいよ」
 錦之助は、財布から数枚の一万円札を出して聡子に渡した。
「四時までって言ったらあとニ時間?遊ぶ時間ないじゃない」
 聡子はつまらなさそうに言った。京都には詳しくないし友達もいないので、地元育ちの隠岐に街を案内してもらうのを楽しみにしていたのだ。
「涼之助はん戻ってきはったら暇になるさかい、そしたら二人で遊びに行こ」
「暇になんてならねえよ」
 錦之助が意地悪く水を差した。
「来月の稽古がある。セリフ覚えてるだろうな?」
「あ……忙しいて忘れてた。すんまへん、今日から覚えます」
 怒られる前に先手を打って謝る。弟子入りして四ヶ月たち、隠岐はそういうタイミングもつかめるようになってきた。
 美容院は河原座から歩いて十分もかからないところにあった。内装が白で統一された現代的なヘアサロンは、とても歌舞伎役者御用達の店には見えない。クーラーのきいた店内に入ると、いらっしゃいませ、と威勢良くスタッフの声がかかった。
「聡子ちゃん、久しぶりだね。また背伸びたんじゃないの?」
 奥から出てきた店長らしい男が話しかけてきた。茶色い髪を後ろで束ねた、痩せて背の高い若者だ。
「うん、三月よりニセンチ伸びた」
「そちらの僕は?彼氏?」
 隠岐がひとりで頬を赤らめていると、聡子がにこやかに答えた。
「うちのお弟子さん。いま河原座で阿古屋やってるのよ」
「ああ、君が噂の大型新人か」
 隠岐は恐縮してぺこりと頭を下げた。
「松嶋隠岐どす」
「支店長の藤井です、よろしく。じゃあ誰からやる?どっちでもいいよ」
 聡子が隠岐を見て、
「隠岐さんが先のほうがいいよね?時間がないから……今日は記者会見なの」
「へえ、じゃ急がないと。どうぞこちらへ」
 シャンプーをされて鏡の前の椅子にすわらされ、髪型のカタログのようなものを渡された。開くと、いろいろなショートカットの女性が写っている雑誌の切りぬきが貼ってある。
「どんなのがいい?」
「……あの、これみんな女の人の」
「うん、隠岐君にはこっちのほうが似合うと思うよ」
 隠岐はしかたなくぱらぱらめくって、できるだけ男っぽい髪型を探した。
「これがよろしおす」
「ベリーショート?なんか髪きれいなのにもったいない気がするけど」
 店長は言いかけたが、隠岐が鏡の中でむっとした顔をしたのに気づいて、
「はい、かしこまりました。けっこうばっさりだね、これは」
 伸び放題になっていた隠岐の髪をシャキシャキと静かな音をたてながらカットしていく。
「うなじきれいだねえ……ショーのモデルになる気ない?」
「ありまへん」
 二十分後、ヘアスタイルが完成した。さっぱりと頭の形を出したショートカットは、かえって少年の中に潜む女らしさを強調し、あやしいまでの美少年に変身させている。
「隠岐さん、それ……」
「似合わへん?」
 危ないんじゃない、という言葉を飲みこんで、聡子は手を振った。
「ううん、すごくよく似合ってる。お兄さまびっくりするわ、きっと」
 聡子が髪を切ってもらっている間、隠岐は白いソファーに座ってぼんやり『美しいキモノ』の最新号をながめた。
 聡子はくせのない黒髪をふっくらと張りをもたせて若若しく結い上げてもらっていた。この美容院が役者たちやその妻たちの行きつけなのは、カットのうまさもさることながら、髪を結うのがとても上手だからなのだ。
 夏のワンピースとサンダル姿に頭だけ和風というかなりアンバランスな聡子と、坊主に近いくらい髪を切った隠岐が楽屋に帰ると、みんな驚いた。初日以来口をきいてくれなかった鶴吉まで、ぽろりと
「髪切ったのね」
 と言ったくらいだ。しかし、錦之助は髪型のことにはいっさい触れなかった。
「早くこれに着替えろ。昨日も言ったけど、記者会見では代表の記者の質問にだけ答えるんだぞ。それから、下手な嘘はつかないこと」
 渡された単衣の紋付と袴を手早く身につけ、同じ格好をした錦之助と二人でタクシーに乗り、京都観光ホテルへと向かった。
 会場にはすでにスーツで決めた朝子が来ていて、てきぱきとホテルの従業員を指図して準備を整えていた。
「まあ、かわいくなったわね、隠岐ちゃん。二人とも控え室にいてちょうだい。あと一分で記者の方たちを入場させるから」
 松嶋事務所の社長であり夫と息子のマネージャーもこなす朝子は、当然記者会見にも出席する。他の役者の奥様連中からはでしゃばりなどと蔭で言われているが、朝子の仕事ぶりはたんなる奥様稼業を超えたものなのだ。
 五時きっかりに記者会見が始まった。五、六十人の記者たちで会場はほどほどに埋まっている。隠岐たちが着席すると、まずはひとしきりカメラのストロボが光った。司会役の事務所の男性が立ちあがって一礼する。
「それではただいまから記者会見を始めさせていただきます。初めに松嶋事務所代表・芳田朝子が、松嶋隠岐につきましてひととおりの説明をいたします」
 薄いブルーの涼しげなスーツに身を包んだ朝子は、営業用のすてきな笑顔でカメラに向かってお辞儀をした。
「みなさま、本日は暑い中お集まりいただきましてありがとうございます。私どもの門弟・松嶋隠岐について少々ご説明申し上げます。隠岐は本名を中川隠岐と申しまして、京都祇園の出身でございます。今年の三月に中学校を卒業いたしまして、十五才で松島錦之助の部屋子となり付き人の修業を積んでまいりましたが、先月、東京歌舞伎劇場におきまして『羽根の禿』で初舞台を踏みました。当月は京都河原座で、『連獅子』の胡蝶と、菱川涼之助さんの代役として阿古屋という大役をつとめさせていただいております。隠岐は幼少のころから唄、三味線、鳴物、舞の修業を積んでおりましたので、歌舞伎の世界での日数は浅うございますが、役者としての基礎的な教養は人並み以上に身についております」
 朝子は立て板に水といった調子で三分ほどプロフィールをしゃべった。
「続きまして松嶋錦之助の挨拶でございます」
 錦之助が立ちあがってお辞儀をすると、またシャッターの音が盛り上がった。錦之助は十七才のとき人気時代劇の主役をつとめたことがあり、十八才で現代劇や映画の主役もこなし、歌舞伎に専念している現在もテレビCMが流れている華の芸能人なのである。その妹の美少女ということで聡子にも芸能界の仕事の話は来ているのだが、本人がのんきな性格のため、いまのところデビューの予定はない。
「本日は私の弟子、隠岐のためにお集まりいただきましてありがとうございます。まだ十五ですから、海のものとも山のものともつきませんが、ひとまず女形として修業をさせるつもりです。まだ未熟でお見苦しいところも多いですが、どうぞ温かく見守ってください。阿古屋の代役の件についてお話ししますと、単純に、三曲が弾ける役者が他にいなかったのが理由です。しかしこれはほとんど私のわがままでございまして、父をはじめご快諾いただいた幹部のみなさまがたにはたいへん感謝しております。この場を借りてお礼申し上げます。ですがいちばん迷惑をかけたのは隠岐自身にかもしれません。申し訳ないなと思っています」
 隠岐はびっくりした。まさか錦之助がそんなふうに考えてくれていたなんて。確かに隠岐は、どうして自分だけが実力もないのに大役をさせられるのかと錦之助を恨んだこともあった。だが、錦之助の言葉を聞いたとたん、絶え間なく与えられる重圧に悩んでいたことなど一瞬で忘れてしまった。
 実はこれは、隠岐に身のほど知らずなイメージを与えないようにという錦之助の配慮だったのだが、そんなことは知る由もない。
「それでは、ただいまから三十分ほど質問をお受けする時間といたします。質問は代表の方からお願いします」
 中央前方の席に座っていた三十代ぐらいの男性記者が立ちあがり、マイクを握った。
「松本隠岐さんに質問させていただきます。まず、身長と体重を教えてください」
「は?……はい。身長は百五十センチ、体重四十キロです」
「スリーサイズは?」
 会場から笑いが起こった。
「すんまへん、ちょっとわからへんのどすけど」
 代表者はメモ帳にちらっと目を落とし、次の質問をした。
「どうして歌舞伎役者になろうと思ったんですか?」
「お兄さん……いえ、錦之助さんに言われたからです。頭悪うて高校にも行かれへんかったさかい」
「錦之助さんのことはお兄さんって呼んでるの?」
「はい」
「二人はどこで知り合ったんですか?」
「舞の先生のお稽古場でたまたま聡子ちゃんと一緒になって、おさらいの時に見に来はったのが最初です」
「そのときに、役者にならないかというふうに言われたわけですね?」
「いいえ。一緒に暮らさへんか、とは言われましたけど」
「ははあなるほど」
 記者はとてもおもしろそうに笑った。
「では、隠岐さんは将来どんな歌舞伎役者になりたいと思いますか?」
「そうどすなあ……涼之助さんみたいにやさしい人になりたいと思います」
「目標は菱川涼之助さんですか。日本を代表する女形になりたいと……?」
 隠岐はあわてて首をふった。
「そんなたいそうなことは思てしまへん。ただ、あんなふうに周りの人に慕われる役者さんになりたいと思うただけです」
 何につけてもこんな調子で誤解をいちいち解かなければならないので、三十分間の会見の終盤には隠岐は疲れていらいらしてきた。
「すみません、そろそろ舞台の時間でございますので、このへんで会見を終わりにしたいと思います。本日はありがとうございました」
 司会者の言葉に救われ、隠岐は錦之助の後について退場した。
「あー疲れた。芝居の方がまだましや。うち、何かまずいこと言うた?」
「いいや。初めてにしては上出来だ」
 錦之助は満足していた。あの受け答えで、隠岐の気取りがなく素直な性格は十分アピールできたはずだ。髪型も思いがけなくかわいいし、女性ファンがつくことは間違いない。悪い虫がつかぬよう注意しなければ、と気を引き締める錦之助であった。
 それから一週間後の八月十六日、菱川涼之助は声帯の手術を終えて退院し、舞台に復帰した。

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