京鹿子恋山路 お菊編

名古屋あき

十八、

 夜が更けて、京都の日中の暑さもいくらか和らいだころ。
 松嶋錦之助は宮川町の某茶屋の二階で酒を飲んでいた。もちろん手酌などではなく、舞妓時代から馴染みの小菊という芸妓がぴったりと横に座っている。
 今夜は、芝居がハネたあと隠岐と聡子をタクシーで家に返して、ひとりで行きつけの茶屋へ来たのだ。錦之助は若さに似合わず、みんなで騒いで飲むよりも、こうしてしみじみと芸妓相手に深い話をするのが好きだった。もちろん芸妓のほうも錦之助の相手をするのは大好きである。
「帯屋はん、病気はもうよろしおすんどすか」
「ああ、ノドの方はね。しばらく休んだから前より元気になったくらいだ」
 さされた盃をそろそろと口に運びながら、錦之助は答えた。
 実際、涼之助の舞台は、休演する前よりさらに磨きがかかっていた。代役のあとを受けて「さすがは帯屋」と言われる舞台を見せなければならない重圧もなんのその、持ち前の濃厚な色気をこれでもかとばかりに発散している。隠岐に代役をさせたことが恥ずかしくなるような、圧倒的な芸の力だった。
「帯屋はんが戻らはって、おたくの隠岐はんもほっとしはったんとちがう?」
 小菊は探るようなかわいらしい笑みを浮かべて錦之助の顔をちらっとのぞき見た。小菊のほうが二つ年上だが、小柄で童顔で若若しいので、芸妓仲間からうらやましがられるほどお似合いなのである。
「ほっとしてると言うより、解放されて有頂天って感じだな。楽屋にじっと座ってることもできねえんだから、まったく」
「お師匠はんは心配どすなあ。隠岐はんはかいらしさかい」
「別に心配してはいないけど」
 錦之助は心にもないことを言いながら酒を口にした。
「そうかて、ええ仲らしいやないの」
 とつついてきた小菊を、
「まさか。妹と同い年だぞ」
 錦之助は自分でもうまいと感心するほど自然にはぐらかして、付け加えた。
「それに、俺が小菊以外のやつとそんな仲になるわけないだろう」
「うれし」
 小菊は耳元にかぐわしい息をふきかけ、黒い着物の裾をさばいて立ちあがった。錦之助は小菊に手を取られ、引かれるままに次の間へ入った。
 善興寺に帰ったのは午前二時を過ぎたころだった。本堂に上がると、隠岐と聡子があいだに錦之助の布団を挟んでぐっすり眠っている。互いに憎からず思っているにもかかわらずこんな距離でのんきに寝ていられる子供らしさに、錦之助は安堵した。
 聡子は寝相がよく、パジャマも布団もきちんと着ているが、隠岐は、浴衣がぐちゃぐちゃになるほど動きまわっていて、このままでは寝冷えすることまちがいなしのだらしない寝姿をしている。
 錦之助は仕方なしに浴衣を着せなおしてやった。わざとではなく指先に触れる肌のきめが、さっきまで一緒にいた女のそれとは違って、さらりとしている。腕も足も男のくせにほくろひとつなくなめらかだ。立役は客に手足を見せるのでいつもきれいにしておかなければならず、錦之助は毎日その処理に苦労していたから、隠岐の足につい見とれた。
 帯をしてやろうとしたとき、隠岐が目を覚ました。
「誰……?わ、わわっ……何しはんの!」
 窓から月の光だけがさしこむ暗さの中、パニックになった隠岐は大声で助けを求めた。
「聡子ちゃん!お兄さんが……!」
「馬鹿」
 錦之助は隠岐の口をふさいだが、逆効果だったようだ。おびえきって硬直している。そんな表情を見ていると本当に妙な気になってしまいそうだったので、錦之助はさっと目をそらした。
「あほかお前は。その帯結んで早く寝ろ」
「目が覚めた」
 隠岐は勘違いが恥ずかしかったのか、思いきりむっとした調子で言った。だが錦之助が隠岐に背を向けて横になると、布団の上を這い寄ってきて、
「どこ行ってはったん?祇園?宮川町?上七軒?」
 とおもしろそうにささやいてくる。
「うるせえな。黙って寝ねえと本気で襲うぞ」
「若うおすなあ」
 錦之助はすばやく寝返りをうって隠岐をつかまえた。必死で逃げようとする隠岐の頭を乱暴に掻き撫でて耳にかみつくように言い聞かせる。
「もう寝なさい。明日も仕事だ」
 離してやると、隠岐は飛びのいてタオルケットを引き被った。それで身を守れると思っているところがかわいいが、錦之助はもう放っておいて寝ることにした。
 翌日は、来月東京の歌舞伎劇場で上演される『番町皿屋敷』のポスター撮影が行われることになっていた。歌舞伎劇場では毎年九月に、若者のための歌舞伎教室と銘打って、できるだけわかりやすい演目を解説つきで上演するのが恒例である。今回は上演前の解説を高嶋磨里がつとめ、芝居の主役を松嶋錦之助と松嶋隠岐がつとめるという、たいへん若い顔ぶれの企画が組まれていた。
 その日、隠岐は非常に調子が悪かった。朝、いつまでも起きずにぐずっているかと思うと、お腹が痛いと言い出して劇場に行こうとしない。すぐ病院に連れて行ったら、案の定仮病だとわかった。
 夕方六時。錦之助は朝から隠岐を怒りっぱなしだったのでさすがに少し疲れていた。しかも、隠岐は、十五分ほど前に行き先も言わず楽屋を飛び出していったきりまだ帰ってこない。ひとりで舞台裏をさまよい歩いていては危険だということがまるでわかっていないのだ。錦之助はいらいらして楽屋のれんをはね上げ、ちょうど通りかかった鶴吉に尋ねた。
「貴夫、あいつどこか知らないか?」
「あいつって?」
 鶴吉は、わざとらしくしらを切った。錦之助は、鶴吉に教える気持ちがないことをさとって、
「もういい」
 と自分で探しに行こうとした。が、その袖を引きとめられた。
「ちょっと待ってよ。隠岐ちゃんだったら帯屋の兄さんのところにいたから心配ないわ。それより話があるんだけど。あたしの楽屋、来てくれない?」
「涼之助兄さんの楽屋か、ありがとう」
 錦之助はすぐにそこへ向かって歩き出した。鶴吉の言葉は、行って確かめなければ信じることができない。それに鶴吉の楽屋へひとりで入ることにはためらいがあった。おおげさかもしれないが身の危険を感じるのだ。
 いとこ同士として長年付き合ってきて、鶴吉の純粋さやかわいらしさは十分わかっているが、執念深くわがままな性格であることも身にしみている。鶴吉の自分への思慕は、錦之助にとってかなり困ったことのひとつだった。
 紫ちりめんののれんをくぐると、めずらしく鶴吉の言ったとおりに、隠岐はいた。湯呑を手に畳の上にあぐらをかいて、なにやら一生懸命涼之助に話しかけている。
 涼之助が錦之助に気づいた。
「あ、噂をすれば、だ。隠岐ちゃん、お兄さんがみえたわよ」
「行儀が悪い!」
 錦之助は隠岐の襟首をつかんで揺すぶったあと、
「どうも御迷惑をおかけして申し訳ありません」
 と汗のふき出る思いをしながら頭を下げた。
「そんな他人行儀な挨拶いらないいらない。そうだ、柿ノ葉寿司もらったんだけど食べるでしょ?みんなで食べましょうよ、ちょうどお昼だし。隠岐ちゃん、お茶いれて」
「はい」
 隠岐はまるで自分の楽屋にいるかのように生き生きとふるまっている。錦之助はわずかにショックを受けた。
 白地に紺の格子模様の浴衣をまとった涼之助は、酷暑にもかかわらず名前のとおり涼しげだ。涼之助は微笑みをうかべたまま錦之助の方に少し身を乗り出して、小声で言った。
「まだ弟子入りして四ヶ月でしょう?早過ぎるんじゃない?」
「何がです」
 錦之助は一瞬わけがわからなかったが、すぐにピンときた。
「……俺はこいつが腹出して寝てたから浴衣を着せなおしてやろうとしただけですよ」
「ふうん、そう」
 涼之助はにやにやしている。付き人の女性たちもにやにやしている。錦之助はうんざりした。
「隠岐、なんでもかんでも人にしゃべると信用なくすぞ」
「お茶どうぞ」
 隠岐はそ知らぬ顔で湯呑を差し出した。
「兄さん、悪いけど俺は親父とは違いますから。隠岐に変なこと教えないでください」
「はいはい」
 この世界では色事の相手に男性女性を問わないのが常識だが、錦之助は必要に迫られないかぎり男は相手にしなかった。そのおもな原因は父親への反発だが、つまりは正常な感覚の持ち主なのである。
 柿の葉につつまれた押し寿司を食べながら、朝からあんなにむずがっていた隠岐がすっかりご機嫌なことに気づいた。涼之助がよほど好きなのだろう。実の兄弟だから親しみがあるのも当然かもしれないが、いままでお兄さんお兄さんと慕っていた自分よりも涼之助になつくことがあるか、と錦之助は少々おもしろくない気分だった。
 さて、その日の出番がすべて終わった夜七時、錦之助は隣に隠岐をのせて撮影スタジオへとベンツを走らせた。
 今回のカメラマンは、隠岐が初舞台のときにポスターを撮った宮城エイジである。宮城は変わり者ということで有名で、たしかに今日も真夏だというのに黒い皮の上下を着こんでいた。
「おっ、錦之助君久しぶり。あいかわらずいい男だねえ。あ、お前さんはこないだ涼之助の楽屋にいた子だろ?出世しやがって。でもまあ撮ってやるか。美男美女ってオレ好きなんだよ」
 宮城は夜行性の動物のように元気はつらつとしていたが、一日働いたあとの錦之助と隠岐はそのエネルギーを受けとめかねていた。
 一日の舞台が終わった上にまた化粧をしなおし、衣裳とかつらをつけて長い間カメラマンの指示に応え続けるのは、想像以上に気力と体力を使い果たす作業だった。特に隠岐は、ニ時間もすると眠気に耐えられずしゃがみこんでしまった。
「まだ終わらへんの……?」
「あと少しだからがんばれ。起きろ、ほら」
 肩をかかえて立ちあがらせたところを一枚撮られた。プライベートの、しかも疲れきっているところを撮るのはやめてほしいとカメラマンを睨んだら、それをまた撮られた。
「はーい撮影終了。お疲れ様」
 宮城はこれからスタッフと飲みに行くらしく、錦之助も誘われたが、隠岐がいるのでと断った。実際は自分もかなり疲れていたからだったが。
「お子様のお守はたいへんだな。じゃあまた。次は写真集かなんかやりたいね」
「はい、ぜひ。お疲れ様でした」
 隠岐は眠たがって、着替えさせるのがやっとだった。熟睡している重い体をかかえて車の後部座席になげこみ、興善寺へ帰って、自分だけ寝巻きに着替えて寝た。着替えさせてやるくらいの余裕はあったが、明日の朝起きてまた騒がれるといやだったからである。
 数日後、出来あがったポスターが楽屋に持ち込まれた。縦一メートル横七十センチもある大判だ。番町皿屋敷と横書きで一番上に印刷してあり、その下に、若い腰元が絶望的な死の予感をたたえたまなざしで侍の胸に額をあずけ、青年はそんな少女を守るようにキッとこちらを見据えている。
「詐欺じゃねえか、これは」
 芝居のできない隠岐の素の瞬間をとらえた宮城の腕を、錦之助はそう評した。
「隠岐。これ見て劇場に来るお客様を、騙すわけにはいかねえぜ」
「へえ……?」
「死ぬ気で稽古ってことだよ。今日から」
 錦之助は腹を決めた。絶対に隠岐を誰の前に出しても恥ずかしくないお菊にしてみせる。そのためには、この自分にできることならどんなことも厭いはしない。
 翌日から都内の駅に貼り出された『番町皿屋敷』のポスターは、宣伝効果がなくなるほど盗まれたのだった。

十九、

 隠岐は錦之助の腕の中に体をすべりこませた。口元にやさしい笑みをたたえた端正な顔を、斜め下からひたと見上げる。目と目が合った。
「播磨さま……」
「お菊……」
 そっと近寄せてくる唇が、きわどいところで止まる。隠岐は目を閉じ、息をつめて、その三秒間をやりすごした。
「うーん、違うんだよねえ。隠岐君、もっと裕之君に惚れないと。それじゃあ段取りになっちゃってるんだよ」
 もう何度目か数えるのも忘れてしまったダメ出しを出したのは、鶴吉の父親で磨里の叔父にあたる菱川鶴之丞である。鶴之丞は若い者ばかりのこの一座の舞台監督役をかってでているのだ。
 河原座の千秋楽をめでたく終えて、隠岐たちは八月二十七日に東京へ帰ってきた。その日から歌舞伎劇場で『番町皿屋敷』の通し稽古が始まるからである。
 錦之助の特訓のおかげでせりふと動きは完璧に覚えていたが、下座や他の出演者と一緒に実際に芝居をつくっていく通し稽古となると、非常に心もとない。しかもこの通し稽古は、歌舞伎劇場のニ階にある稽古場で、出演する役者たち全員が居並ぶ前で行われる。隠岐は、常に似合わず萎縮してしまっていた。
 そのせいなのか、なかなか次の場面へ進まない。この濡れ場だけでもう五回以上はやり直している。隠岐は、他の役者たちを待たせていることを意識してしまって、いっそうあせった。しかしいったいどうすれば鶴之丞の要求に応えられるのか、まったく見当もつかない。とりあえず今までと同じようにやるしかなかった。
「播磨さま……」
「お菊……」
 そっと被さってくる凛々しい顔。目を閉じながら、隠岐は、背中を支えてくれている錦之助の腕にいつもより少し力がこもったような気がした。
 異常を感じて逃げる間もなく、錦之助の唇は、止まるはずのところで止まらずに、直接隠岐の唇に押しつけられた。それどころか、「播磨さま」の'ま'の形に開いた口の中に舌が侵入してきたのである。
 隠岐は大暴れした。抱きしめられて不自由な両手で思いっきり錦之助の胸を殴り、それでも放さないので足で蹴ると、両足をからめとられて動きを封じられた。息ができないのと恥ずかしいのとで、顔が激しく火照る。
 格闘のすえやっとのことで魔の手から逃れ、隠岐は半分無意識に浴衣の袖で口をぬぐった。
「お兄さんなんて、大っ嫌いや!」
 恨みをこめて言い放つと稽古場を走り出た。稽古を途中で放り出すのはいけないことだとわかっていたが、もうあの場にはいられない。
 初めて会ったときの、守ってやる、という言葉についてきた。いくら隠岐とて、この道に入った以上、一生何事もなく男として生きられると思っていたわけではないが、錦之助だけは無理強いはしないと信じていた。それなのに、みんなの見ている前でいきなりあんなことをするなんて。いったいこれからは誰を信じて生きていったらいいのか。
 トイレに飛び込み、吐こうとしたが何も出ず、苦しくて涙が出ただけだった。洗面台で何度もうがいをし、七回顔を洗ってふと見上げた鏡に、錦之助が映っていた。
「稽古に戻るぞ」
 隠岐は錦之助が差し出した手ぬぐいを無視して、手ふき用のがさがさした紙を取り、顔をこすった。どんなに頼まれてもあの稽古場にもう一度戻るつもりはなかった。稽古場では何十人もの役者たちが興味津々で隠岐を待ち受けているに違いない。好奇の視線とひそひそ声に耐えて、またあの濡れ場を演じるなんて隠岐にはとてもできそうになかった。
「行くぞ」
 錦之助は隠岐の手を引こうとした。
「さわらんといて」
 隠岐は一歩さがった。いきなりキスを奪っておきながら謝りもせず稽古に戻れと言いにくる錦之助の無神経さに、激しい怒りがこみあげる。そればかりではなく、隠岐は錦之助を強烈に意識しはじめていた。トイレに二人きりでいるのが怖い。
「じゃあ先に行け」
 錦之助はあごで稽古場の方を示した。隠岐は首を横に振って拒否した。
「まさか行かねえなんて言うつもりじゃないだろうな。先輩たちを何分待たせてると思ってんだ」
「…………」
「もういい。京都へでもどこへでも勝手に行っちまえ」
 錦之助は冷たく言うと、うしろも振り返らずに歩いていってしまった。
 隠岐はすぐさまその背中を追いかけた。
 錦之助に突き離されたとたん、自分のなすべきことを自覚したのだ。それは、お菊を演らなければならないという使命感だった。やっと見つけた自分の道を、こんなところであきらめるわけにはいかない。考えてみれば勝手にキスしてきたのは錦之助のほうで、自分は何も悪くないのだ。それなのに逃げ出すなんて、あまりにも弱腰ではないか。
 稽古場に入っていくと、案の定、全員がいっせいに隠岐を見た。
「お待たせして申し訳ありません」
 菱川鶴之丞はにっこり笑ってうなずいて、
「じゃ、続きからいきましょうか」
と台本をめくった。
 周囲の視線はやはりいやらしかったけれども、続きの稽古はわりとスムーズに運び、午後八時ごろには舞台稽古のめどがついて、解散となった。
 その日の夜ふけ、芳田家ではひと騒ぎ持ち上がっていた。
「いや。廊下で寝る!」
 隠岐は風呂上りの浴衣姿で、枕をかかえてキッチンのいすにうずくまっていた。錦之助と共寝するのが嫌だと突っ張っているのである。
 錦之助はいすにこしかけ、隠岐と目の高さを合わせてきた。
「バカ言うな。風邪ひいたらどうするんだ」
「ほな居間のソファーで寝る」
「ジョンがいるだろ」
 ジョンというのは最近聡子が飼いだしたミニダックスフントのことである。まだ生まれたばかりで、ソファーの上の特別席に毎日寝かせられていた。
「ほな……聡子ちゃんの部屋に布団持ってく」
「冗談じゃねえよ。いちおう聡子は俺の妹なんだからな」
 隠岐は必死に考えた。
「ほな、これは?お兄さんのベッドでおかみさんと聡子ちゃんが寝て、うちが聡子ちゃんのベッドに寝て、お兄さんが錦四郎はんのベッドに寝る」
「これ以上くだらねえこと言うと張り倒すぞ」
 錦之助はぞっとするような声で言った。
「そやかてうちの寝るとこあらへんのやもん!」
 隠岐も負けてはいない。そこへ朝子が美白パックをはりつけた顔のままやってきた。
「どうしたの?また喧嘩?」
 隠岐は朝子を引っ張り込むことにした。朝子はいつも隠岐の味方をしてくれるのだ。
「おかみさん聞いて。今日お兄さんがな、お稽古の最中にキスしてきたんやで」
「ええっ、ほんと?」
「口の中ぐちゃぐちゃにされて死ぬかと思た」
 隠岐はここぞとばかりに不満をぶちまけた。
「せやからもうお兄さんは信用できんさかい一緒に寝るのは嫌どす言うたら、あかんて言わはるんえ。ひどいと思わへん?」
 朝子はなぜかくすくすっと笑った。
「そうね」
「ねえおかみさん、お兄さんの手の届かへんとこでどこかうちが寝られるとこないかなあ」
「うーん、うちはふとんがひとつもないからソファーかベッドの上じゃないと寝られないのよね」
 おもむろに錦之助は椅子から立ち上り、
「俺から逃げる前に、なんでああいうことされたか考えてみろ」
 とだけ言うと、自室に行ってしまった。
 まるでキスされたのは隠岐のせいだと言わんばかりの言い草に、隠岐は心の中で強く反発したが、錦之助の真剣な目が無視できず、しぶしぶ今日の稽古を思い出した。
 何度も何度も同じ場面の繰り返し。ちゃんと教わったとおりやっているはずなのに、ダメ出しは必ず返ってくる。そういえば、周りの人を待たせていただけではなく、錦之助を付き合わせてしまってもいたのだ、と思い当たった。その原因はあきらかに自分の集中力のなさだった。芝居がただの段取りになってしまっていて、全然お菊になりきれていなかった。
「なんでキスされたか、わかった?」
 朝子が麦茶の入ったブルーのグラスを二つ置いて、隣に座った。
「たぶん、下手やったから」
「これ飲んだら裕之のとこで寝る?」
「……でも、怖おす。あんなふうにまたいきなり襲われるんやないか思て。夢に見そうや」
「かわいそうね」
 朝子の言葉を聞いて、隠岐は自分が男らしくないことに気づいた。襲われたら殴り返せばいい。それに、ずっと先のことだと思って忘れていたが、錦之助の行動を受け入れることが最終的な女形としての試練なのだ。逃げてばかりでは大人になれない。
 隠岐はグラスの麦茶を飲み干して、流しに持っていった。
「おおきに、おかみさん。やっぱりうちお兄さんと寝ます」
 朝子はうなずいて、パックの隙間から見える目だけで笑った。
「それがいいわ」
「おやすみなさい」
 隠岐はおずおずと錦之助の部屋に忍び込んだ。錦之助はもうベッドに横になっている。隠岐の場所はちゃんと空けてあった。そろそろと横たわり、グレーのタオルケットを引き上げた。
 しかし、寝る前にひとこと謝っておかなければならない。
「お兄さん。今日、ごめんなさい。何べんも同じこと付き合わせてしもうて」
 錦之助は隠岐の方に体を向けた。
「わかっただろ?もう何度も稽古してできるような段階じゃないんだ。芝居ってのは想像でやるもんだけど、お前、キスされてるところ想像できなかっただろ。あのままじゃ何百回やっても出来ないと思った」
「うん」
 隠岐は素直にうなずくことができた。
 考えてみれば、錦之助と二人で寝るのは久しぶりだ。京都での公演中は一人ずつ別の布団に寝ていたし聡子もいっしょだった。やっぱりこれが落ち着く、と思いながら隠岐はほんの少し錦之助のほうへ体を寄せた。そのとき、錦之助が余計なことを言った。
「安心しろよ。好きでキスしたわけじゃねえから」
 からかうような錦之助の声が、隠岐の気持ちを再び険悪にした。自分にとっては初めての経験だったというのに、この男はファーストキスを奪われたショックなんて爪の先ほども気にかけていないに違いない。
「好きでもないのに、あないなことしはったん?」
 隠岐が怒ったのを知っても、錦之助はまったく動じなかった。
「芸以外の物のために自分の体があると思うな」
 錦之助は隠岐に背を向けて寝てしまった。
 隠岐は悔しくて悲しくて眠れなかった。好きだからキスしたわけじゃない、という言葉が思いがけなく尾を引いていた。いままでは何かにつけて自分が錦之助にとって特別な人間だということを意識させられ、愛されていると感じていた。しかしいまの言葉は、今後錦之助が隠岐に何をしてきても、それは芸のためでしかないと宣言されたようなものだ。
 隠岐は錦之助にすがりついて寝たかったが、しゃくにさわるのでタオルケットで我慢した。

二十、

 残暑厳しい九月二日、『番町皿屋敷』の初日が開いた。歌舞伎劇場周辺は、開演のニ時間も前から制服姿の中学生や高校生たちでごったがえしており、出席をチェックする引率の先生が声を張り上げている。
「いまどきの中高生は常識がないのかしらね。車道を歩くなっつうの」
 タクシーで楽屋入りするやいなや錦之助たちの楽屋に遊びに来た高嶋磨里は、めずらしくオネエ言葉で文句を言った。開演前とはいっても、錦之助と隠岐の出番まではあと三時間もあるし、磨里は素顔に紋付袴姿で出るだけなのでこれといった仕度もいらず、のんびりとした雰囲気である。
 今回、錦之助と隠岐は、めったに使えない座長専用の楽屋を使わせてもらっており、それに乗じて磨里もあまり立ち入ったことのない最奥の楽屋に入り浸るつもりのようだった。三人は浴衣に着替え、洗ったばかりの大粒のぶどうをつまんでいる。
「磨里、せりふ覚えたか?」
「覚えましたよ必死で。じゃなきゃいまごろ幸村病院に緊急入院してるって」
 磨里は、歌舞伎をまったく見たことのない学生たちを相手に"歌舞伎の見方"を四十分間にわたって実演つきで解説するという大役をつとめるのである。
「大変どすなあ。ひとりでしゃべらはるんやろ?」
「それだけじゃないよ。立役のまねもしなきゃなんないんだもん、見得きったりさ。そんなの初舞台以来したことないよ」
「磨里はんの初舞台っていくつのとき?」
「五歳。坂田金時」
 隠岐は噴き出しそうになるのを抑えるのに苦労した。普段すらっと小粋な女形をやっている磨里からは想像もつかなかったからだ。
「俺もそのときいっしょに初舞台だったよな、四天王のひとりで。あとの二人は貴夫と、浩太郎か」
 錦之助はなつかしそうな顔をした。当時、梨園には同年代の男の子がちょうど四人いて、錦之助と磨里が五歳、鶴吉が四歳、そして三人とは血縁のない久屋の高島浩太郎が三歳だったのである。この四人はなにかと比較されながらも仲良く成長してきたが、四人の中でも錦之助はずば抜けて素質に恵まれていると幼い頃から言われていた。
「それよりさあ、聞いたよ。通し稽古のこと」
 磨里は満面に笑みをたたえながらひじで錦之助を攻撃した。
「『お兄さんなんか、大っ嫌いや!』って飛び出して行ったんだって?」
 隠岐は真っ赤になった。もう磨里の耳にまで入っているのだ。歌舞伎界じゅうに知れ渡るのも時間の問題だろう。
「俺もあやしいと思ったんだよね。裕之があんなキスシーンほっとくわけないもん」
「どういう意味だ」
「目の前に隠岐ちゃんの柔らかそうな唇があったら俺だって……」
 磨里はわざといやらしくぶどうにしゃぶりついた。錦之助は磨里の頭をぽかりと叩いた。
「いってぇ……せりふ忘れちまったらどうすんだよ」
「自業自得だ」
 磨里はくせっ毛を整えながら、上目使いに錦之助を見上げた。
「それにしてもさ、鶴之丞のおじさんの前であんなことしちゃって大丈夫なの?たかちゃんに筒抜けじゃん」
 錦之助は苦い顔をした。そうなのだ。たかちゃんこと鶴吉は鶴之丞の息子だから、錦之助と隠岐のキス事件はもうとっくに知っているはずだ。いつもならそんな話を聞いて黙っているわけのない鶴吉が、あれからもう六日もたつのに何も言ってこないとはどういうことだろうと錦之助は不気味さを感じていた。
「貴夫、何か言ってたか?」
「べつに。最近話してない」
「鶴吉はんに知られたらあきまへんの?」
 隠岐は何のことかわからずに聞いた。すると磨里は目を丸くして、笑った。
「たかちゃんは裕之にベタ惚れだもん。気づかなかった?あんだけ嫉妬されてたのに。鈍感だねえ」
 嫉妬……隠岐は自分が錦之助をめぐる三角関係の一角に数えられているらしいことにとまどった。鶴吉と錦之助がどうなろうと、自分には関係ないことだ。第一、錦之助と自分はデキてなどいないのだから。
「お兄さんは、鶴吉はんのこと好きどすの?」
「おおっ、直球!」
 磨里は喜んでいる。錦之助はじろりと磨里を睨むと、
「貴夫はただの従弟だよ」
 と答えた。隠岐はそうだろうと思った。鶴吉ははっきり言って錦之助とはつり合わない、と心の中でつぶやき、そんな自分に恥ずかしくなる。
 そこへ、桔梗の柄をさわやかに着こなした朝子が入ってきた。
「あら磨里くんおはよう」
「おはようございます、おばさん」
 朝子は贔屓から贈られた新しいのれんを持ってきたのだった。さらりとした白地の絹に墨絵の菊が手書きで染めつけられている。
「裕之、今日の夜、あけといてね」
「何があるんですか」
 錦之助は両親には敬語を使う。
「ほら、藤川さんご一家との会食。銀座の"カトルズ・ジュイエ"で八時って、前言わなかった?」
 藤川氏は大病院を経営している外科医で、その妻と娘が蓬莱屋のたいへん熱心なファンであることから、後援会の会長もやっている人物だった。この新しいのれんも藤川氏があつらえてくれたものである。蓬莱屋にとっては大切なご贔屓筋なので、定期的なサービスを欠かすことができない。つまり、毎月数回楽屋で茶飲み話をしたり、食事に行ったり、サインをしたりといったことだ。
「ああ、忘れてた」
「忘れてたじゃないわよ、しっかりして。今日は裕之にいい話があるそうよ」
「いい話?」
 錦之助よりも磨里のほうが身を乗り出した。隠岐もしっかり聞き耳をたてた。
「美樹お嬢様があなたと婚約したがってるんですって。もし結婚ってことになったら、逆タマよ、裕之。すごくいいお話じゃない?」
「うっそ!裕之が婚約?」
 隠岐は、婚約なんて冗談だろと言ってほしくて、無表情な錦之助の顔をひたすら見つめた。しかし錦之助はこんなことを言った。
「美樹ちゃんを役者の奥さんになんて、よく藤川さんが承知したね」
「そうなの。藤川さんも奥様も、錦之助君ならまかせられるっておっしゃってね」
 朝子はうきうきしたようすで入り口にのれんをかけている。
 隠岐は漠然と暗い気持ちになっていた。錦之助だって先月二十一歳になったのだから、少し早めだが、婚約の話が出てもおかしくはない。しかも相手は後援会会長の娘だ。弟子としては、将来の蓬莱屋の安泰を祝っておめでとうございますと言わなければならない。
 藤川美樹という名の相手の女性には隠岐も何度か会ったことがあった。宗家・出雲清十郎の稽古場でたまたまいっしょになったとき、向こうから挨拶してきたのだ。美樹は芸事が非常に好きらしく、素人ながら出雲の御宗家に舞踊を習ったり、長唄も囃子もそれぞれ家元のところへ通っているという。ウェーブのかかった長い髪と綺麗な爪が印象的な、深窓の令嬢タイプの美人だった。
「あのお人やったら奥様にちょうどええと思います」
 隠岐は認めざるをえなかった。美樹は、松嶋錦之助の妻として劇場のロビーで挨拶している姿が目に浮かぶほどの適任者なのだ。
「隠岐ちゃんもそう思うでしょ?小さい時からお稽古をしてらっしゃるから、この世界のこともまるっきりわからないわけじゃないし」
 どちらの親も賛成している好条件の縁談で、しかも女のほうは男に惚れている。これがだめになるとしたら、男に他に好きな相手がいる場合以外ありえない。錦之助は婚約するに違いない、と隠岐は思った。
「美樹さんってときどき楽屋に来る、あの超美人なお姫様みたいな子だろ?あの子と結婚するの?この大悪人めが」
 磨里は興奮して騒いでいたが、ほどなく男衆に呼ばれて仕度をしに自分の楽屋へ帰って行った。
 その日から、隠岐は、錦之助が結婚したらどうしようとばかり考え続けていた。もしも結婚したら別居するはずだから、自分は三軒茶屋のマンションから通いの弟子になるだろう。二十四時間いっしょに行動していた生活が終わって、錦之助のいなくなったあの部屋にひとりで暮らすのかと思うと、寂しさに胸がしぼられる。いつもべったりと甘えて寝ていた思い出が、涙でにじんだ。
 錦之助は婚約こそしなかったが、藤川美樹と交際しはじめたらしく、毎晩遅く帰るようになった。隠岐は、いまごろ錦之助は何をしているのだろうと考えるとなかなか眠れず、錦之助の枕を抱きしめて鼻をうずめるとやっと精神が安定して眠りにつけるというありさまだった。
 錦之助が美樹と付き合い始めて二週間ほどたったある夜、電子レンジで作ったホットミルクを聡子と二人でソファーにすわって飲みながら、隠岐は聞いてみた。
「お兄さん、結婚しはるんやろか」
「まだ当分しないと思うけど?だって二十一だもん」
「ふうん……」
「お兄さまが結婚しちゃったら寂しい?」
 からかう風でもなくやさしく聞かれて、隠岐は聡子の肩に頭をのせるようにうなずいた。
「ひとりやと、眠られへん」
 聡子はふふふと笑った。
「隠岐さん、赤ちゃんみたい。……ジョン、おいで」
 聡子は黒い子犬を床から拾い上げると、隠岐の膝の上にのせた。
「ジョンといっしょに寝てもいいよ?」
「いらん、犬なんか」
 幼いジョンはじっとしていられず、すぐ膝から飛び降りてソファーのまわりをごそごそ動き回っている。
「じゃあ何?私?」
「からかわんといて」
 隠岐は頬を染めた。まだこういう冗談を平気で受け流せる年ではないのだ。
「お兄さま、早く帰ればいいのにね」
 聡子はミルクのカップを両手で温めながら時計を見上げた。二人はそれから三十分待ってそれぞれの寝室にひきあげたが、結局その夜、錦之助は外泊していたのだった。
 隠岐の精神状態はぐずぐずだったが、そのかわり、お菊の芝居は神がかり的に上手くやることができた。愛し合っていると信じていた青山播磨が他の女と結婚する、という噂に振り回されて、大事な家宝の皿を柱に打ちつけて割ってしまうお菊の心理を、のめりこむようにして演じた。
 濡れ場ではいつも体が震えた。稽古場でのあのディープキスを思い出してしまうからでもあったが、それより、錦之助の腕に抱かれていることが嬉しくて幸せで震えがくるのだった。いつまでも恋人同士の芝居を続けていたくて、幕が閉まるのがたまらなく名残惜しかった。

二十一、

 熱にうかされたような舞台と切なくてたまらない夜を繰り返しているうち、あっという間に九月は過ぎていき、ついに最後の『番町皿屋敷』をつとめ終えた隠岐は、抜け殻のように廊下を歩いていた。楽屋風呂に入って化粧を落とし浴衣を巻きつけたものの、まだ舞台への未練が残っている。
「お疲れ様です」
 声をかけられて顔を上げると、薄い桃色の最高級のつけさげに身を包んだ藤川美樹が美しい微笑みをうかべて会釈してきた。ゆたかな黒髪をふっくらと結っている。千秋楽だから錦之助の楽屋にお祝いを言いに来たのだろう。隠岐は無言でお辞儀を返し、楽屋へ帰ろうとしていた足を食堂の方向へ向けた。恋人が訪ねてきたところに邪魔をしてはいけないと思ったのだ。
 しかし、藤川美樹は隠岐の後を追ってきた。
「あの!たいへんすばらしい舞台で、私感動しましたわ」
 隠岐は嬉しくもなんともなく、
「へえ、おかげさんで」
 と答えた。すると、お嬢様は驚いたような顔をして、
「あら、ご存じでしたの?私、こんなことしたってうまくいくのかしら、錦之助さんもしょってらっしゃるわねえと思っていたんですけど」
「はあ?」
 わけがわからず聞き返すと、美樹は上品に笑い出した。
「それじゃやっぱりご存じなかったのね。錦之助さんがね、私と結婚するようなそぶりをすれば隠岐さんがお菊の気持ちを理解できるから協力してくれっておっしゃって」
 隠岐はだんだん飲み込めてきた。錦之助は、隠岐の気持ちをすべて計算して、嘘をついていたのだ。隠岐に観客を裏切らないお菊をやらせるために。
 隠岐は錦之助の楽屋に駆けこんだ。
「お兄さん!」
 浴衣を脱いでスーツに着替えていた錦之助は、隠岐の怒りの形相を見てくすっと笑った。隠岐は一発殴ってやりたかったが、恥ずかしさが先にこみあげてきて動けなくなってしまった。錦之助を好きになっていることを見透かされているのだと気づいたからだ。
 後ろから、お疲れ様です、と美樹が入ってきた。
「あ、美樹ちゃんよく来てくれたね。どうぞ座って」
 ネクタイを締め終わった錦之助は普段とは別人のような愛想の良さで座布団をすすめると、隠岐に、
「お茶いれて」
 と命じた。隠岐はむっとしながらも言われた通り動いた。
「この一ヵ月、ほんとにご迷惑をおかけしました」
 錦之助は両手をついて美樹に頭を下げている。
「いいえ、気にしないで下さい。それより、うまくいってよかったですね。すごい評判じゃありませんか」
 美樹はきれいな黒い瞳を少し見開くようにして言った。
 この公演は中学・高校生に見せるのが目的なので一般の客は三階席しか買うことができないのだが、その限られた席を争って、チケットの値段が十倍にもふくれあがっていた。また、演劇雑誌でも新聞でも、錦之助の播磨と共に隠岐のお菊が絶賛されていた。錦之助が新聞や雑誌を見せないようにしているため隠岐は知らなかったが。
「美樹ちゃんのおかげだよ」
「そんな。錦之助さん、隠岐さんに謝らないといけないんじゃありません?一ヵ月もあんなお芝居を素でやれちゃうくらいに追い込んで……」
 美樹は気の毒そうに隠岐を見た。隠岐は平気なふりをするしかなかった。
「べつに、お兄さんが結婚しはるからってお菊みたいに皿割ったりはしいしまへん。うちはお兄さんのことどないも思てへんし。藤川はん、ほんまにお兄さんと結婚しはる気ィあらしまへんのん?嘘やったなんてもったいないわ」
 美樹は笑いをこらえるような顔をした。
「ええ、錦之助さんにはもうすてきな方がいらっしゃいますもの」
 隠岐は考え込んだ。
「誰やろ……宮川町のひと?新橋のきり奴さん?それとも、磨里さんの」
「余計なことを言うな」
 叱られたが、美樹が笑ったので救われた。
「たくさんいらっしゃるのね」
「いえいえ」
 錦之助はハンカチを出して汗をぬぐった。美樹は気を使ったのかさりげなく話題を変えた。
「今度の東京会館の会、楽しみにしてますわ」
 会とは舞踊会もしくは演奏会の略語である。十月に東京会館で開かれるのは日本舞踊の若手を集めた若桜(わかさ)会という舞踊会である。錦之助はそれにゲストとして招かれているのだ。錦之助は来月は舞台を休み、そのかわり全国各地の舞踊会やテレビ出演などの予定を詰めこんでいる。
「あ、ええ、どうぞぜひ楽屋にもいらしてください。御紹介したい人もいるので」
「ええ、うかがいます。隠岐さんはお出にならないの?」
 隠岐はとんでもないと首を振った。
 そこへ、懐かしい人の声がした。
「こんにちは。入りますよ。あらお客様?」
「涼之助はんや!」
 隠岐は飛び立って迎えに出た。
「お久しぶりどす。上がってください」
 涼之助は仕事の帰りなのか、羽織に着流し姿だった。すすめられる前に自分で座布団をとってきて、隠岐の隣に座りながら、
「涼之助です。藤川さんのお嬢さん?美しくなって……久しぶりね。」
 と親しく美樹に話しかけた。この二人は知り合いらしい。
「こちらこそ御無沙汰してます。たしか今月は大阪でしたよね。もう楽(注:千秋楽の略)はお済みになったんですか?」
「昨日東京に帰ってきたの。それでこっちの楽には間に合ったのよ」
「涼之助はん、見てはったんですか?」
 隠岐は穴があったら入りたい気分になった。あんなに我を忘れて役に溺れ、今日でもう恋人どうしの芝居も終わりだと思いつめて、殺された後にも涙を流していた自分の姿を、崇拝する先輩に見られていたなんて。あんなものは芝居じゃないと言われても仕方がない。
「なんだか精神状態がギリギリの感じがしたから、隠岐ちゃんどうしちゃったのかしらと思って心配したけど、いま見たら元気そうで安心した」
 涼之助はそう言ってにっこりした。
「そうそう、このあいだ阿古屋の代役を上手にやってくれたから、ごほうびをあげようと思って来たのよ」
「そんな兄さん、気を遣わないでください」
 錦之助は自分でいれた茶を涼之助に出しながら言った。
「ううん、たいしたことじゃないから。あのね、来年のお正月、京都の河原座なんだけど、そこでまた『助六』が出るの」
「またですか?」
「またなのよ。例のごとく助六は錦四郎のお兄さんなんだけど。それでね、隠岐ちゃんに白玉に出てもらおうと思って」
「わあ、すごい」
 美樹が感心した声を上げた。白玉は、助六の愛人である揚巻という花魁の妹分の役で、若手女形の登竜門ともいえる役である。まとまったセリフは一か所ほどだが、花道から花魁道中で登場したり、つねに舞台の中央に近いところに座っていたり、とにかく目立つ。生まれつき歌舞伎役者としての品格と華がなければまったくどうにもならない役なのだ。
 隠岐はいままで何度も助六の芝居を見て、白玉には憧れの気持ちを持っていたから、内心嬉しくてたまらなかった。しかし錦之助は、
「こいつには白玉はまだ無理でしょう。すみませんが」
 と断ってしまったのだ。涼之助はちょっと首をかしげたが、
「そう?裕之君がそう言うなら私も無理にとは言わないけど」
 とすんなり引っ込めてしまった。隠岐は納得できずに尋ねた。
「お兄さん、なんであかんの?」
「もうちょっと大きくなってからにしなさい」
「もう大きいもん。来週の月曜日で十六になるんえ。もう大人や」
 隠岐は一生懸命言った。錦四郎の助六に涼之助の揚巻、その脇に自分が白玉で出られるなんて夢のようなチャンスを逃したくなかった。
 それなのに錦之助は、
「まだ早い」
と聞く耳を持たない。隠岐は涼之助に助けを求めた。
「涼之助はん、うち、白玉がやりたい」
 しかし、涼之助はなだめるように隠岐の背中をなでた。
「裕之君には裕之君の教育方針があるみたいだから、次の機会にしましょう」
「すみません、せっかくお話をいただいたのに」
 錦之助は手をついて頭を下げ、
「おわびといってはなんですが今夜は"銀寿司"に行きませんか?」
「いいわねぇ。隠岐ちゃんもおいでなさい」
 隠岐は一気に機嫌がなおった。錦之助が仕事のあと食事や飲みに出かけるとき、いっしょに連れて行ってもらったことはまだ一度もないのだ。
「美樹ちゃんもいっしょにどう?」
「いえ、今日はこれでおいとまします。弟の誕生日なので、家族が集まらないと母の機嫌が悪いんです」
 美樹はそつなく断って、千秋楽のお祝いを置き、待たせてあった運転手つきの自家用車で帰っていった。
 大好きな涼之助といっしょの楽しい食事が終わって三軒茶屋のマンションに帰ったその夜。
 隠岐はほぼ一ヵ月ぶりに錦之助とひとつのベッドにもぐりこんだ。この一ヵ月間の不安がゆっくりとほどけていく。
「お兄さん、ずっとここにいる?もうどこにも行かへん?」
「おいおい。赤ん坊じゃないんだから」
 そう言いながらも錦之助はしがみついた隠岐を抱き上げてくれた。
「毎晩、どこに行ってはったん」
「銀座のアーバンホテルに部屋を取って、そこで稽古したり本読んだり」
「嘘や。新橋の名古屋さんやろ」
「違うよ」
 錦之助は苦笑した。だが隠岐はそうに違いないと見破った。
「お兄さんの奥さんになる人は、たいへんやわ」
「ませたこと言いやがって」
 錦之助に頭をこづかれ、隠岐は最高に幸せな気持ちで熟睡した。

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