二十ニ、
九月三十日は隠岐の十六歳の誕生日だ。
その朝隠岐は、下半身の気持ち悪さで目がさめた。ベッドの中でもじもじしていると、もうとっくに着替えている錦之助に布団の上からバシッと叩かれた。
「休みだからって寝過ぎだぞ。さっさと起きろ」
寝過ぎといってもまだ午前九時であり、隠岐にしてみれば十分に朝寝坊の範疇だ。しかし、錦之助はだらだらとベッドの中で過ごすのが嫌いらしく、休みなのにいつもと同じ八時十五分に起きて活動している。
白いシャツを着て台本とプログラムの整理をしている錦之助をまぶしく感じながら、隠岐は小さな声で告白した。
「パンツ濡らしてしもた」
「じゃあ着替えろよ」
なんでもないように返されて、隠岐はやっと布団をぬけ出しクローゼットの中の自分のたんすを開けた。寝巻きの帯をほどいて前をはだけ、腰をかがめて隠れるように下着を取り替えた。それから、現在お気に入りの草木染めをはおる。先週京都の義母が送ってくれたものだ。それを見た錦之助はあきれたように言った。
「お前、休みの日も着物着るのか?」
隠岐は当たり前だとうなずいた。やせ過ぎて背が低く肩幅がない自分の体型では洋服は似合わない。やっと中学を卒業して制服から逃れられたのに、何を好んで洋服を着なければならないのか。
「そういえば隠岐は洋服ほとんど持ってないよな。今日は服買いに行こうか。誕生日だし、プレゼントしてやるよ」
隠岐はイヤだなあと思ったが、錦之助が買ってくれるというのだから文句を言うわけにもいかない。
いつもより遅い二人だけの朝食のあと、錦之助の車で銀座の松越デパートへ出かけた。
サングラスをかけた背筋のきれいな若者とかわいらしい着物姿の少年の組み合わせは、買い物客の目をいやがうえにもひきつけた。さすがは都会の客というべきか、サインをくれなどとまとわりつく者はいなかったが、「あれ錦之助じゃない?」「ほら、七月に羽根の禿で初舞台を踏んだ子よ」というささやきは耳に入ってくる。
「お兄さん、感じ悪いわ」
「気にするな。四階に上がるぞ」
紳士服のフロアにつくと、錦之助は迷わず奥の売り場へ歩いた。そこは布地が何百種類も置いてあるオーダーメイドのコーナーだった。五十代くらいのベテラン男性店員がめざとく錦之助たちを見つけ、すばやく近寄ってきておじぎをした。
「どうも、いつもお世話になっております。今日はお休みですか?」
「ええ。ちょっとこいつの服を作ってもらおうと思って」
店員は隠岐を見て目を細めた。
「まあかわいらしいぼっちゃんだ。おいくつですか?」
隠岐は子供扱いされてむっとしたが、できるだけ大人っぽく見えるように、
「十六になりました」
と答えた。
「今日が誕生日なんだよ。だから連れて来たんだ」
「それはおめでとうございます。何をおあつらえいたしますか?」
隠岐は錦之助を見上げた。
「とりあえず、シャツとスーツを」
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
応接セットに通されて、紅茶を出された。一服していると、店員が隠岐のためにみつくろった生地をつぎつぎに持ってくる。隠岐たちは座ったままその中から好きなものを選べばよいのだ。値段を気にすることもない。まるで王侯貴族のような買い物だと隠岐は思った。
ニ、三十種類の布をためつすがめつしたあと、錦之助は二組の生地を選び出し、他を片付けさせた。どちらにするのだろうと思っていたら、
「じゃあ、このニ着で」
と言う。隠岐は、そんなにいらないよ、という言葉をのみこんだ。立たされて体のいろんな部分のサイズを細かに採寸され、やっと買い物は終わった。
「お仕立て上がりは十月の十四日になります」
「じゃあ家に届けてください。支払いはいつもの口座で。お世話になりました」
「とんでもない。ネクタイはプレゼントさせていただきます」
店員はにこにこ顔だった。近頃はこんなふうに思い切りよく買い物をする客は少ないのだろうか。
「ありがとうございました、またお越し下さいませ」
阿国座の近くにある行きつけのインド料理店で昼食をとって家に帰った。聡子は高校へ、錦四郎と朝子は劇場へ行っている。隠岐は、急にぽっかりと空いた時間を錦之助とふたりきりで過ごすのがなんとなく恥ずかしかった。
ジョンと遊ぶのにも飽きて、
「お兄さん、髪切りにいってもええ?」
ソファーで昼寝している錦之助にもたれかかると、錦之助は眠そうにまぶたを上げ、隠岐の髪をいじった。
「やっと少し伸びたのにまた切るのか?しばらく伸ばしなさい」
「短いのが好きなんや」
「伸ばせって言ってるだろ」
そう言ってまた寝てしまう。隠岐はつまらなさにテレビをつけ、ちょうどやっていたニ時間ドラマの再放送をぼんやり見ているうちにいつのまにかうとうとしてしまった。
気がつくと、いつもの大きなベッドに布団をきて寝ていた。錦之助も隣でぐっすりと眠っている。まるで今日一日が巻き戻ったかのような錯覚が起きたが、カーテンから西日がさしているのでもう夕方なのだとわかった。
枕もとの時計が五時をさしているのを見て、隠岐はあわてて錦之助を起こした。
今夜は赤坂の中華料理店でささやかな隠岐の誕生会をしてくれることになっているのである。集まるメンバーは、隠岐と芳田家の人々に涼之助を加えた六人。そして待ち合わせの時間は六時半だった。いますぐ用意して出かけなければ遅刻してしまう。
錦之助はすぐスーツに着替え、隠岐は羽織付きのいい着物に着替えて、顔を洗い髪をととのえた。すると二人とも、いまのいままで昼寝していたとは思えないしゃっきりした格好になった。
赤坂の中華料理店『芙蓉飯館』は、テレビや雑誌の取材をすべて断っている、知る人ぞ知る名店だ。芳田家は先代の頃から店長と付き合いがあり、身内の祝いなどのさいには『芙蓉飯館』に集まって食事をするのが恒例になっていた。
「隠岐ちゃん、お誕生日おめでとう!」
予約してあったパーティールームに入ったとたん、着物姿の錦四郎と朝子、制服の聡子、そしてすてきなセーターをまとった洋装の涼之助が立ちあがって迎えてくれた。
「おおきに、ありがとうさんでございます」
「隠岐ちゃんと裕之はそこにすわって。さっそく乾杯しましょ」
隣の席の涼之助が、隠岐のグラスにウーロン茶をついでくれた。
「ありがとうございます。涼之助はん、きれいどすなあ。洋服着てはるの初めて見ました」
「何言ってるのこの子は……」
涼之助は自分もウーロン茶の入ったグラスをかかげながら笑った。
「それじゃあ僭越ながら乾杯の音頭をとらせていただきます」
錦四郎がおどけて言った。手には先に注文してあった中ジョッキが握られている。
「隠岐ちゃんの十六歳の誕生日を祝って、カンパーイ!」
隠岐は全員とグラスを触れ合わせた。
前菜は、向こう側が透けて見えるほど薄切りにしたキュウリの上に冷した豚肉を盛り、ソースをかけた一品。そしてピータンのサラダ。次に運ばれて来たのは殻つきの芝エビを一気に炒めあげた辛い料理と、中国野菜とあわびの煮物。さらに息もつかせず五目おこげが来て、フカヒレが丸ごと浮かんだスープに驚き、デザートの黒ゴマのアイスクリームで幕を閉じた。
さっぱりとした甘さに舌鼓をうっているとき、涼之助がいきなりとんでもないことを言い出した。
「ねえ隠岐ちゃん、うちの子にならない?」
「え?」
隠岐はてっきり冗談だろうと思った。しかしそうではなかったようだ。
「そろそろ言い出すころじゃねえかと思ってたよ」
「兄さん……?」
錦之助は表情を消して涼之助を見つめた。
「隠岐ちゃんを私の養子にしたらどうかと思うの。いえね、もちろんいままでどおり裕君のお弟子さんでいいし、そっちで暮らしてもいいのよ。名前も松嶋のままでいい。ただ、私の養子ってことにしておけば、世間の風当たりも弱まるだろうし、将来帯屋の名跡もついでもらえるかなって」
たしかに合理的ではある。隠岐はもともとれっきとした帯屋の御曹司なのだ。その権利を取り戻すためには、先代の隠し子だとばらすよりも涼之助の息子という形をとったほうが聞こえがいい。涼之助が生涯結婚などしないことは明らかなのでお家騒動が起きる可能性もない。
「まだ心配?」
涼之助は複雑な表情の錦之助にやさしく尋ねた。
「いえ」
「隠岐ちゃんを取られるんじゃないかって思ってるんだよな」
錦四郎の遠慮ないひやかしに、錦之助は、
「ええ、まあそんなところです」
とつぶやいた。
「隠岐ちゃんはどう?京都のお義母さんのところから私のところへ籍を移すことになるけど」
「うちは、いままでと生活が変わらへんのやったら、養子になってもよろしおす。涼之助はんがどうしてもって言わはるんどしたら」
隠岐は、当代帯屋の養子になることがどういうことなのかあまりよくわかっていなかった。帯屋の御曹司になること。それは、将来の名優という保証書をつけられたことと同じだ。「友十郎」「涼之助」という偉大な名跡を継ぐ者は、誰よりも美しく、誰よりも上手くなければならない。隠岐は、一生続く負けの許されない芸の戦いに、何も知らずに挑もうとしているのだった。
蓬莱屋の御曹司である錦之助には、そのことがよくわかる。錦之助と名乗る以上その名にふさわしくない舞台を客に見せることは決してできないと思いつめ、自殺寸前の精神状態になったこともたびたびあった。周囲のおべっかで自分の実力がわからなくなるのを恐れてわざと無愛想にふるまい、陰口を言われた時期もあった。
だからこそ隠岐にそんな重荷を負わせることが不憫だったのだが、錦之助の心配をよそに、養子の話はトントン拍子に決まった。
隠岐の養子のお披露目は、十一月の阿国座公演で行われることになった。演目は『源氏物語』、劇中に口上をはさむ。日本一の人気役者が話題の天才少年女形を養子にするということで、マスコミの注目度も一気に高まった。
二十三、
隠岐が涼之助の養子になるというニュースは歌舞伎界を揺るがした。特に、女形たちの間では、どす黒い嫉妬と憶測に満ちた会話が飛び交っていた。
その筆頭は言わずもがなの菱川鶴吉である。いままでは、たとえ隠岐が大きな役を演じても、伝統の重みを背負った由緒正しき名門とは格が違うと自分を納得させてきたのに、隠岐が涼之助の息子となり帯屋の跡取りとなったら、実力どころか地位までも対等になってしまう。あの隠岐と横一線で並べられるなど、鶴吉には我慢のならないことだった。
「なんであんな子が涼之助兄さんの養子になるのよ!」
朝からもう五回くらいこのセリフを聞かされている側近の老女形は、相手をするのも疲れたのか、投げやりに答えた。
「どうせ帯屋の隠し子かなんかじゃないんですか」
「そんなことあるわけないでしょ。あの人女知らないもの」
子供のときからかわいがってくれた大先輩への尊敬の念も、鶴吉は怒りのあまり忘れ去ってしまっているようだ。
「じゃあ、もしかして先代でしょうかねえ。友十郎さんは日本中にお手つきがいたから」
老女形はもっともらしいことを言った。いまは午後四時、楽屋の掃除が終わってお茶の時間である。鶴吉のファンで友達の帝王大学の男子学生が持って来たシュークリームが今日のおやつだった。鶴吉は和菓子より洋菓子、なかでも生クリームを使ったものが好物なのだ。
鶴吉はシュークリームの端を小さく噛みちぎって、考え込んだ。
「あのガキがそんな偉い役者の血を引いてるとは思えないわ。……そうよ、きっとあいつ涼之助兄さんに取り入って……でも兄さんは女形は相手にしないし……あ、わかった。あいつ、錦四郎のおじさんに色目つかったんだわ」
「ぼっちゃん」
「きっとそうだ。涼之助兄さんは、錦四郎のおじさんの言うことだったらなんでも聞くもの。隠岐のやつ、虫も殺さないような顔してとんだ女狐ね」
「ひでえこと言うなあ」
「あっまりちゃん」
高島磨里は挨拶もなしに楽屋へ上がりこむと、浴衣の裾を派手に広げて畳の上にあぐらをかいた。それを見て、老女形は顔をしかめる。
「まあ池田屋のぼっちゃん、行儀が悪うございますよ」
「ほっといてちょうだい。俺は男として育てられてるから」
「まりちゃん、おやつ食べにきたの?」
「違うよ。あったらもらうけど」
磨里は目の前の鶴吉をとっくりと観察した。さっきまで嫉妬に狂って醜い想像をひろげていたとは思えない、あどけない子供のような微笑みだ。この無邪気さが、鶴吉の恐いところなのだ。今月は『妹背山女庭訓』で鶴吉がお三輪、磨里が橘姫をつとめたが、恋人に裏切られたお三輪が男を追いかけて花道を行く場面の鶴吉の気迫は、ぞっとするものがあった。お三輪は本当はそんなに怖気立った女ではないのだが、鶴吉がやると、感情表現にブレーキがかからなくなってしまう。
「あの子はさ、べつに策略使って養子にもぐりこんだわけじゃないよ」
磨里は出された茶を一口飲んだ。
「やけにかばうじゃない。何か知ってるの?」
「いや。でも、裕之があの子を錦四郎のおじさんに近づけたりすると思う?」
「うーん……そういやそうだわね。裕兄はおじさん憎んでるもんね」
「でしょ。それにあんな、下の毛も生え揃ってねえようなガキが男をオトすなんてできるわけねえよ」
「あっまりちゃん騙されてる。ああいうのに限ってカマトトぶってるだけなのよ。あれも手管のひとつ」
鶴吉はうなずきながら濃茶をすする。磨里は、絶対鶴吉はその手を使ったことがあるに違いないと確信した。磨里自身もスネに傷持つ身ではあるが。
そこへふいに来客があった。
「おはようございます、涼之助です。貴夫さんいる?
」
柔かな美声である。涼之助は今月はここ阿国座ではなく、歌舞伎劇場に出演しているはずだ。舞台の合間を縫って来たのだろうか。
「はいはい、いまお茶飲んでるところですよ。どうぞおあがりになってください。隠岐さんもどうぞ」
老女形の言葉に、鶴吉と磨里は顔を見合わせた。
「それじゃ失礼して……今日はすぐ帰るからお茶はいいわ、挨拶に来ただけなの」
涼之助は女言葉にふさわしくない黒紋付と袴の正装で現れた。後ろから、目を伏せた隠岐も同じ格好で付いてくる。
座りなおした磨里は、緊張しがちな部屋の空気を変えるように明るくしゃべった。
「あれ、隠岐ちゃん、今日は裕之と一緒じゃないの?」
「手分けして回ってるのよ。ヒロ君はひとりでご贔屓筋に」
涼之助が代わりに答えた。
「ふうん。隠岐ちゃんは涼之助兄さんとコンビか。あ、もうお父さんとか呼んじゃってるわけ?」
隠岐は困ったように笑い、
「そんなこと言えしまへんわ」
とうつむいた。黒紋付の衿からのびたうなじが、むしゃぶりつきたくなるように白い。鶴吉は無性に嫌な気分になった。
「まあ失礼ね。養子になったんだから、父親として接しなきゃだめじゃない」
棘のある鶴吉の言い方に、涼之助は苦笑した。
「私もあんまりお父さんとは呼ばれたくないから、いままでどおりでいいってことにしてあるのよ」
磨里は涼之助のフォローをすくいとった。
「そうなんですか。それで、隠岐ちゃんは涼之助さんの家で一緒に暮らすの?」
「いいえ、これからも蓬莱屋はんにお世話になります」
「じゃあずっと裕之の部屋子ってわけか」
「裕之兄さんには悪いけど、私、隠岐ちゃんの芸のためには涼之助さんのお弟子になったほうがいいと思うわ」
鶴吉はまたもや余計なことを言い出した。しかし涼之助は何もかもわかったような顔で、
「ありがと、貴夫君。でも隠岐ちゃんをここまで大きくしたのはヒロ君の力だしね。なかなか私に譲ってはくれないわよ」
と微笑んだ。
「ねえ隠岐ちゃんはどうなのよ。裕之兄さんと涼之助にいさん、ほんとはどっちの弟子になりたいの?」
鶴吉の黒目がちなアーモンドの目が、威圧感を感じるほど隠岐の顔を射ぬいている。
「さあそれは」
隠岐は返答に窮した。よほど気をつかって答えなければ、恐ろしい反応が返ってきそうな気がする。
「どちらでも、弟子にしてくれはるならうちにとっては身に余る幸せどす」
鶴吉は、ハン、と鼻であしらった。
「へえ、そう。はっきり裕之兄さんって言わないのね。兄さんが可哀想。キスまでしたんでしょ?」
「あーっそうそう、あれからどうなった?ちょっとは進んだの」
磨里は鶴吉への遠慮もどこへやら、好き心をむきだしにして身を乗り出した。涼之助もおもしろそうに隠岐を見守っている。隠岐は頬を赤らめてどぎまぎしながら三人の先輩女形を見回した。
「そんな……べつにお兄さんとはそんなんやありまへん、あのときは、うちがあんまり下手やったさかい痺れをきらしただけで」
「ウソウソ、ずっと狙ってたんだよ裕之は。俺、あいつが初めて隠岐ちゃん連れて来たときからわかってたもん。気を付けろよォ、いきなり部屋に忍び込んできてゴーカンされるかもしれないよ」
「まりちゃん、裕之兄さんはそんなことしません」
鶴吉はわがままな子どものように言い張った。
「でも、そうね、もうそろそろかしらね」
涼之助がにこにこと隠岐を眺めながら言った。隠岐は非常にいたたまれなくなった。経験豊富な男たちに囲まれて、自分の性生活のことをあれこれいわれるほど居心地の悪いことはない。
「もう、涼之助はん、変なこと言わんといてください」
「あら大事なことよ。来年のお正月、白玉やってくれるんでしょ」
「でもあれはお兄さんがあかんて……」
「だから、それは隠岐ちゃんがまだだからじゃないの。そういう人よ、ヒロ君は。傾城は子供のする役じゃないって考えてるのよ。ほんとにいいお師匠さんね」
錦之助がまだ早いまだ早いと言って許してくれなかった意味が、隠岐はやっとわかった。しかし、錦之助のそういう気遣いはうっとおしくてならなかった。もう十六歳なんだから、傾城とはいえほとんど座っているだけの白玉役くらいやらせてくれてもいいようなものだ。
「でも、もういまのうちから花魁の修業を始めておかないと貴夫君や磨里君の年になったときに困るでしょう。親の私としてはヒロ君にがんばってもらいたいわけ」
「そんなんうちに言われたかて……」
「鈍いなあ隠岐ちゃんは。涼之助さんはね、裕之を誘惑しろって言ってるんだよ」
「ええっ」
鶴吉は、絶句している隠岐を横目にカスタードクリームを舐め舐め悪態をついた。
「自分が一人前になるための努力を他人任せにするなんて、甘すぎるわよ。裕之兄さんに言われるまで待ってたらいいなんて思ってるわけ?バカみたい」
隠岐は、いままで遠い先のことだと思って気にもしなかったことを急に考えてしまった。来年の一月、どうしても白玉がやりたい。だがそのためには自分から動き出さなくてはならないらしい。
隠岐は錦之助が好きだから、多少の勇気はいるものの体を捧げるのもやぶさかではない。だが、錦之助にとって自分は何なんだろうという疑問が頭のすみにわいてきた。ただの弟子なら、お兄さんと呼んだり鏡台を並べたり、まして一緒に寝たりはしない。かといって親密というわけでもなく、きっぱりと上下関係がある。
「あなたなんて黙ってたら百年待ったって抱いてもらえやしないわ」
「たかちゃん」
磨里がたしなめたが、鶴吉の言葉は隠岐の胸に火をつけた。鶴吉の言うとおりだった。この世界の常識でいえば、立役と女形がただ一緒に寝ているだけということはありえない。錦之助だってもし他の女形だったら手を出していたのかもしれなかった。
「あらもうこんな時間……隠岐ちゃん今日は七時から国立舞踊会館でしょう、急がなきゃ怒られるわよ。あ、これご挨拶のお品。磨里ちゃんの分も渡しておくわね。ふたりともおじさまによろしく」
涼之助は、桐箱に入ったコーヒーカップと手拭のセットを二つ畳の上に並べ、隠岐をうながして席を立った。
「それじゃあまた。来月は源氏でみんな一緒になるのよね、楽しみにしてるわ」
「はい、勉強しときます」
「お疲れさまでした」
いやいや見送りに立った鶴吉は、涼之助たちが去っていくのを見届けると、すぐさま老女形に命じた。
「それ、捨てといて。二度と見たくないから」
さて、隠岐は、涼之助と別れてタクシーに乗り、三宅坂の国立舞踊会館へ行った。今日は出雲清十郎の素人の弟子を集めた発表会があるのだ。楽屋は素人のおばさんたちとその友人・家族でごったがえし、おしゃべりがにぎやかである。
「おはようさんどす」
「ああ隠岐ちゃん、やっと来たね。若旦那がお待ちかねだよ」
下駄番のおじさんに礼を言って奥から二番目の楽屋へ入った。
「遅い」
錦之助は隠岐を見もしない。隠岐はすんまへんと頭をさげた。紋付を脱ぎ、化粧をしながら隣の錦之助を盗み見て、あの肩が、あの腿がとみだらな想像がふくらんでしまうのは、年頃の少年にとっては無理もないことだろう。
錦之助と隠岐は今日の舞踊会の特別ゲストとして最後の演目『道行初音旅(みちゆきはつねのたび)』を踊ることになっていた。静御前が従者の佐藤忠信、実は源九郎狐をお供に旅をしているその道中を描いた義太夫ものだ。一週間ほど前から出雲清十郎の稽古場で厳しい稽古をしてきたが、芝居と違ってたった一回きりの公演なので気分的には楽である。
まぶしく輝く銀のかんざしを正面に飾り付けた鬘、真っ赤な姫の衣裳の裾をたくしあげた旅姿、手には優美な笠と杖。静の扮装が完成すると、隠岐は錦之助の着付をながめた。錦之助は化粧が念入りなのでいつも隠岐より仕上がりが遅くなるのだ。金箔で車輪の模様が描かれた黒い小袖があまり高くない身長にぴったりと似合い、襦袢と脚半の浅葱色が際立っている。うすく朱をいれた目もとのきりりとした美しさは思わず吸いこまれそうなほどだ。
「お兄さん」
「ん?」
「惚れなおしました」
錦之助は扇子を持った腕を伸ばして隠岐の胸を叩いた。
「緊張感がない。まったく、昨日のリハが下手くそだったから一度浚ってやろうと思って待ってたのに遅く来やがって。何様のつもりだ、え?」
「すんまへん、堪忍しとくれやす」
隠岐は小さくなった。錦之助を篭絡するには、まだまだ道のりは遠いようだ。
二十四、
十月二十五日。明日から来月の出し物『源氏物語』の稽古が始まるというその日、隠岐は錦之助から歌舞伎劇場の夜の部のチケットを二枚渡された。
「今日は歌舞伎劇場の楽だから、俺の代わりに聡子と見に行ってこい。休憩には楽屋へまわって涼之助兄さんに挨拶するんだぞ」
「はい。お兄さんは?」
「俺はちょっと用事ができて行けないからすみませんって言っといてくれ」
「はーい」
どうせ女だろうと隠岐は思い、ものわかりのいい子のふりをして午後三時半に聡子とふたりタクシーで劇場へ出かけた。この間初めてオーダーメイドした淡いグレーのスーツを着て、錦之助にネクタイを締めてもらい、ちょっと大人の気分である。
聡子は二学期の中間テストが終わったばかりだとかで、かなりの開放感にひたっている。黒地に変わり紋を散らしたお気に入りの小紋でしゃれこみ、
「テストの後は芝居に限る」
などと鼻歌まじりだ。
「テストどうやった?」
「もう、隠岐さんなんでそんなこと聞くの?野暮でござんすよ」
「へえへえ」
聡子は化粧なんて必要ないほどきれいな白い肌にふんわりと薄化粧をしていた。濃いまつげをカールさせて目元を強調しているがどことなくおぼろげで夢のような美少女ぶりだ。
「聡子ちゃん、女優さんにならへんの?」
隠岐が思わず言うと、聡子はふふと笑った。
「実はMHKの朝の連続テレビ小説に主人公の友達役で出ないかって言われてるの」
「へえすごいやん。やったらええのに」
聡子は首をふった。
「うちの学校、芸能活動に厳しいから……でもそれだけじゃないんだけど」
「それだけじゃないって?」
「なんか、うちの家族見てると、私ぐらいは世のため人のために堅気の仕事をしたいなと思って」
隠岐は聡子の気持ちがわかる気がした。不明瞭な莫大な額のお金の出入り、義理や人情にしばられた人間関係、そして表向きは華々しい生活。役者とやくざはよく似ている。ただ、その中心に"芸"というものがあることが違うだけだ。そして、その"芸"に魅せられてしまった者たちがやくざな世界へと引きずり込まれて行くのだ。
弱冠十五歳でそのことに気づき、梨園に生まれながらも賢明に勉学の道を選んで華やかな芸能活動を禁じている聡子は、並みの頭脳の持ち主ではない。
さて、歌舞伎劇場夜の部のプログラムは、一番目の『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』のあと三十分の休憩、そして舞踊『小鍛冶(こかじ)』、最後に『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』という内容だった。涼之助がつとめるのは最初の『関扉』の小町姫と墨染桜の精の二役だけで、あとは出番はない。持病の心臓病があるうえに八月には声帯ポリープの手術までした体を気遣ってのことだった。
隠岐と聡子は昼夜の客の入れ替えでごったがえす正面玄関からチケットを見せて中に入り、前から五列目のやや上手側の席についた。錦之助からもらってきたプログラムを開いて最初の出し物『積恋雪関扉』の出演者をながめているうちに、聞きなれた柝が鳴って幕のむこうのまぶしい世界が現れた。
たとえ老婆を演じても妖怪を演じてもしたたるようなセクシーさがあるのが涼之助の特徴である。その持ち味が、小町姫の恋の口説の場面で一気にあふれかえり、男女を問わず客を悩殺した。そして、舞台正面の大きな桜の木のなかから浮かびあがるように桜の精が現れたときには、どよめきのような溜息が劇場の空間全体に広がった。いつも気さくに付き合っている涼之助がどんなに天才的な女形であるかを思い知らされるのはこんなときだ。小町姫の鮮やかなうつくしさと、桜の精のこの世のものではないあやしい風情を見事に演じ分ける涼之助の芸に、隠岐たちも含めた観客はたっぷりと酔った。
芝居が終わって休憩時間になり、隠岐は聡子と一緒に住みなれた舞台裏へ行って、涼之助の楽屋を訪ねた。その楽屋の入り口で、隠岐はいきなり立ち止まった。
「あっ」
「どうしたの?隠岐さん」
「お祝い忘れてしもた」
「ドジ」
聡子は笑っているが隠岐はそれどころではない。錦之助にくれぐれもよろしくとことづけられた御祝儀袋を、大事なものを入れる引出しにしまったまますっかり忘れていたのである。
「どうぞいらっしゃい。聡子ちゃん、ひさしぶり」
中から呼ばれてしかたなく隠岐と聡子は楽屋に入った。
「かっこいいわよ、そのお洋服」
「おおきに」
涼之助は鬘だけ取った格好で突っ立ったまま、たくさんの女性たちに桜の精の衣裳を脱がされている。
「いまお風呂浴びてくるから、着替えたらどこか夕御飯でも食べにいかない?」
「行く行く!」
聡子はすぐ乗った。
「あの、ちょっと家に忘れ物してしもたさかい、取ってきてもよろしおすか?」
「いいわよ、今から行ってきたら。私と聡子ちゃんはこの楽屋で待ってるから」
「すんまへん、ほな行ってきます。すぐ戻りますよって」
隠岐は楽屋口からタクシーをひろって三軒茶屋のマンションへ向かった。入り口にタクシーを待たせておいて、オートロックをくぐり抜け、玄関に駆け込み、ただいま帰りましたーといいながらキッチンを通り抜けて錦之助の部屋のドアを勢いよく開けた瞬間、隠岐は見てしまった。
いつも錦之助と寝ているキングサイズのベッドの上で、露を浮かべた白い背中をくねらせ夢中で口を吸っている鶴吉と、その体にのしかかられ絡み付かれてキスに応えている錦之助を。
鶴吉はドアの音に振り返った。そして立ち尽くしている隠岐を見ると、何事もなかったかのようにキスに戻った。
錦之助は隠岐に気づくと鶴吉を押しのけ、
「見るな。忘れろ」
とぞっとするほど恐ろしい命令口調で言った。隠岐はバタンと後ろ手にドアを閉めて、何が起こったかよく理解できないまま家を飛び出し、タクシーに乗った。
一刻も早くこの場から離れたかった。汚い、忌まわしい、と心が叫んでいた。錦之助はあんなにも鶴吉をいやがって迷惑がっていたのに、どうして……鶴吉の色香に惑わされたのだろうか。男が男に誘惑されて騙されるなんておかしい、そんなことあるわけがない。錦之助にかぎってそんなこと……第一、あんなに女好きではないか。隠岐が弟子入りしてから、男性との噂など一度も聞いたことがない。これは何かの間違いだ。
隠岐はそう自分に言い聞かせ、タクシーが歌舞伎劇場に着いたころには、どうにかこうにか落ちつくことができた。無理やり普通の顔を装って涼之助の楽屋へ入る。
「おかえり。じゃあ出かけましょうか。隠岐ちゃん、しゃぶしゃぶでいい?」
「はい」
聡子がスーツのわき腹をつついてきた。
「御祝儀持って来たんでしょう?いま渡したら」
隠岐は首を振った。聡子はけげんな顔をした。
「何かあったの?」
「何もない!」
隠岐は思わず大きな声を出してしまい、涼之助に怪しまれてしまった。
「大丈夫?隠岐ちゃん。顔色が悪いわよ。今日はお家に帰る?」
「いいえ、大丈夫です。連れて行ってください」
隠岐は必死で頼んだ。いま家になど帰れるわけがない。あんな光景はもう二度と見たくないし、とりあえず聡子には何が何でも見せるわけにはいかないのだ。
歌舞伎劇場から歩いて十五分くらいのところにあるビルの三階の『泉水亭』が涼之助おすすめのしゃぶしゃぶ屋だった。牛肉だけでなく蟹やゆばなど変わった具があるのだと説明しながら涼之助は隠岐を観察した。最近の忙しさで痩せた頬は、血の気が引いて青白い。瞳はなんとなく焦点が合わないような感じである。
宮崎牛のコースを注文し鍋に湯をわかして待つ間、隠岐は、取りに帰った忘れ物の話題が出ないようにとそればかり念じていた。だが、運良くその話にはならず、具材が運ばれてくると食べるのに一生懸命になっていつしか忘れ去られた。
マンションで見てしまったことを悟られるまいと気もそぞろで味などわからなかった会食がやっと終わり、夜九時ごろ、隠岐と聡子は帰宅した。
錦之助は缶ビールをあけながら居間のソファーでプロ野球を見ていた。まるで留守中なにも変わったことはなかったかのような悠然とした態度である。隠岐がただいま帰りましたと声をかけてもぴくりともせず、
「まだ九時だろ。芝居最後まで見てこなかったのか?せっかくS席のチケットやったのに」
などと言う。落ち着きすぎているのがどこか妙だ。
「涼之助さんにしゃぶしゃぶ食べに連れて行ってもらったの。おいしかったー。お店の名前何だっけなぁ」
「泉水亭だろ」
「あ、そうそう。何で知ってるの?お兄さま」
昼間の出来事など何も知らない聡子は、無邪気にソファーにすわった。
「ずっと前から知ってるよ。兄さんのご贔屓さんがやってる店だ。……聡子、早くそれ着替えろ。しわになるぞ」
「はあい」
聡子は自分の部屋へ行ってしまった。
隠岐もスーツを脱いで浴衣に着替えた。なんとなくぎこちない雰囲気のまま、風呂に入って、台所で水を飲む。居間には錦之助がいるし、錦之助の部屋には昼間の空気が残っていそうであまり一人でいたくない。台所くらいしか居場所がなかった。
十一時をすぎ、錦四郎と朝子が帰ってきて家は一気ににぎやかになった。
「おっ巨人負けたか、よしよし。俺にもビールくれ」
「隠岐ちゃん、歌舞伎劇場の楽、見に行ったんでしょ。どうだった?」
「よかったです」
「あらなんか元気ないみたい。大丈夫?」
額に手を当てられた。
「大丈夫です」
「挨拶回りで疲れてるのよ。今日は早く寝なさい」
錦之助がソファーから立ち上がってきて、隠岐の背中を支えた。
「もう寝よう」
優しすぎて気持ちが悪い。隠岐は朝子にわからないようにじろりと睨んでやった。
いざ部屋のドアを開けきれいに整えられたベッドを目にすると、急に嫌悪感がよみがえってきた。なよっとしてはいてもまぎれもない男性が、普段日に当たらない体の白い部分をさらけだして女のように相手にからみついている光景がフラッシュバックする。
錦之助は隠岐がベッドに入りやすいように掛布団をめくった。
「ほら、寝な」
隠岐はカッとなった。
「お兄さんはあないなことしといてうちにこのベッドで寝ろ言わはるの!?」
錦之助は隠岐の耳に顔を寄せて、小さな声で言った。
「シーツも枕も布団も全部捨てて、新しいの買ってきた」
隠岐は少し嬉しくなった。やはり錦之助は本意で鶴吉を抱いたのではなかったのだ。
「体もアルコールでふいたし」
隠岐はくすっと笑った。錦之助は隠岐を真新しいシーツの上にそっと横たえると、ベッドに腰掛けて告白した。
「あいつ、抱かねえとお前を暴漢に襲わせるとか言いやがってさ」
「それであんなこと……?」
隠岐は驚いて起きあがった。
「何でそんなアホなことしはったん」
錦之助は隠岐をベッドに倒し、自分も寝転がった。
「わからない。お前のこと持ち出されると判断力が鈍るんだよ。してもしなくても結果なんて同じなのにな」
隠岐は錦之助の思いを感じ、胸がつまって、
「お兄さん、堪忍え」
と錦之助にぴたっとくっついた。
「なんでお前が謝るんだ?まったく、貴夫なんて相手にするんじゃなかったぜ。お前が入ってきたときは寿命が縮んだよ」
「うちも五年くらい縮んだ」
錦之助に腕をまわされて新品の夜具にくるまり、隠岐はまるで新婚の花嫁のような気分で眠りについた。
だが、錦之助が優しかったのはその日だけで、翌日から、養子縁組披露のための容赦ない稽古が始まったのだった。
二十五、
「書かねば上達いたしませぬぞ。お教え申そう」
光源氏役の錦四郎が若紫役の隠岐の手を背後から取り、手習いの歌を書かせるのを、錦之助は舞台の袖から鋭い目つきで見つめていた。書き終えた隠岐が、ぱっと紙を隠して、
「書きそこないました」
と恥じらいをみせる芝居がどうも納得いかない。
十一月大歌舞伎『源氏物語』の幕が開いて五日がすぎた。客席は連日大入り満員である。歌舞伎界で押しも押されぬ一番人気を誇る美貌の花女形が、天才少年の"シンデレラ"として注目されていた松嶋隠岐を養子にするというのだから、話題性は抜群だ。そのうえ久しぶりの新作で、錦四郎・涼之助のゴールデンコンビに錦之助・隠岐の若手コンビもからんだ親子の共演とくれば、チケットが売れないわけがない。また、女形がたくさん必要なこの芝居には、葵上役に菱川鶴吉、朧月夜役に高島磨里と、若女形のホープがふたりとも参加しているのだ。
だが、客席の盛況にもかかわらず錦之助はあまり機嫌がよくなかった。その原因が父親への嫉妬だということは考えるまでもなくあきらかだった。いままでは、自分以外の人間が隠岐の相手役をやってもまったくかまわないと思っていたのだが、それが父親だとどうもいけないらしい。
自分が光源氏をやれない苛立ちがつのって、出番を終えて楽屋に戻ってきた隠岐を着替えもさせずその場に座らせて三十分間えんえんとダメ出しをするのが日課になってしまった。その甲斐あってか隠岐の舞台は日に日に見違えるほど成長していくのだが、それがまた錦之助の嫉妬をあおってしまう。
「わかったか?そこは、絶対見せたくない、と思うほど恥ずかしがらなきゃだめだ。もったいぶって恥ずかしそうにしてるんじゃ、年増になっちまうだろ。子供はそんな腐ったような所作はしねえんだよ」
「はい」
「返事するときは目を見ろって言っただろう!」
「はい」
おびえている隠岐にくるりと背を向け、ニ幕の夕霧の出番の準備をする。鏡でちらっとうかがうと、隠岐はうつむいて暗い顔をしていた。
隠岐は、錦之助が怖いので、最近は養父の涼之助や磨里のところにばかり行っている。何をしているやら知らないが、どうせよからぬことばかり吹きこまれているに違いないと錦之助は思っていた。
その予想が的中したのは、十一月九日の深夜、仕事が終わってマンションに帰り、居間でくつろいでいたときだった。
白いガーゼのネグリジェがソファーの隣に座ってきた。てっきり聡子だとばかり思いこんでいたら、その人物は低い男の声で、
「お兄さん」
と話しかけてきたのである。
「なんて格好してんだ、お前」
隠岐は乾かしていない髪をしっとりと額にたらし、頬をほんのり上気させ、目をうるませている。たしかにものすごくきれいだったが、なんのためにそんな少年趣味の人が喜ぶような格好をしているのかわからない。
隠岐は決死の覚悟を決めたような顔をして、こう言った。
「お兄さん。うちをお嫁さんにしてください」
「おいおい、何の稽古だ?これは」
「冗談やありまへん」
「隠岐、どうしたんだ?何があったんだ?」
錦之助は、先走っている隠岐をしずめようと、肩をつかんで優しく尋ねた。だが頭の中ではもう何が起こっているのかわかりきっていた。
ずっとずっと先のことならいいと思っていた。できることなら一生先延ばしにし続けたかったことが、いま、隠岐の力で起こりかけている。
「お兄さんが、好きどす」
「わかってる」
隠岐は涙の一滴も浮かべず、少年らしい潔さできっぱりと言い切った。
「抱いておくれやす」
錦之助は聞かなかったことにしようとした。
「そのパジャマ、聡子のだろ?そんなもの早く脱いで浴衣着て寝なさい」
隠岐は大きな黒い瞳でにらみつけるように錦之助を見た。見返すのにも気力がいるほどだ。
「あきまへんの?」
「もっと大きくなったらな」
「お兄さんはうちのこと嫌いどすの?」
錦之助は隠岐の体を強く一度だけ抱きしめた。
「隠岐は俺の大切な宝物だ」
そう口に出してみて、錦之助は、思いがけずそれが自分にとってただ一つの真実なのだと知った。
「涼之助兄さんや磨里がなんて言ったか知らないけど、あんな変態の言うことを真に受けることないぞ。隠岐は隠岐のままでいいんだから、な」
隠岐はぐっと唇を結んで黙って居間を出て行った。
それと入れ違いのように風呂から上がった錦四郎が居間に入ってきた。バスタオルで頭をグシャグシャやりながらソファーに倒れこむように座って、錦之助にニヤついた顔を向ける。
「隠岐は俺の大切な宝物だ……か。カッコイイこと言うな」
錦之助は怒りの爆発を抑えるため顔をそむけた。
「かわいそうに、隠岐ちゃん、泣きそうな顔してたぜ」
「そうですか」
「何だよ。そういうところが冷たいんだよなあ。俺の息子とは思えねえ」
「もう休みます」
「まあ待てよ。話があるんだ。座れ」
錦四郎の目が怪しい光を放った。錦之助はしぶしぶ浮かせかけた腰をおろした。
「これは父親として言うんじゃねえ。役者の先輩としてのアドバイスだ」
「はい」
「隠岐ちゃん、抱いてやりな」
「そんな話なら聞きません。おやすみなさい」
錦之助はさっさと立ち上がって部屋に帰ろうとした。
「隠岐ちゃんはお前の身代わりじゃねえんだぞ」
錦之助はドアの手前で立ち止まった。
「わかってんだよ。隠岐ちゃんを自分と同じ目にあわせたくないんだろう?あの子にはきれいなままでいてほしいんだろ。お前がそうできなかったから」
錦四郎は厳しい顔になって錦之助を見つめた。
「そんなに大切ならどうして役者になんかしたんだ?こうなることはわかってたんだろう。……理由はどうあれ、この世界に引っ張り込んだ以上、お前にはあの子を一人前にしてやる責任がある。違うか?」
「そうです」
錦之助はつぶやいた。その通りだった。祇園の梅原茂波の稽古場で隠岐に初めて会ったとき、この子はものになる、連れて帰って仕込めばいずれは自分の女房役として稀有な存在になるに違いないと感じた。隠岐を役者にしたのは自分のわがままにすぎない。
「いきなり東京に連れてこられて、舞台に出されて、やっとこさこの世界に馴染んでお前を好きになれて、あまつさえ抱かれてもいいと思えるようになったとたんにキャンセルか。たまらねえな」
「俺は時間がほしいだけです」
錦四郎は鼻で笑った。
「何十年考えりゃ行動できるんだ?お前はこれだからダメなんだ。正直言って、お前が隠岐ちゃん連れてきたときはけっこうやるなと思ったんだがな。結局何も変わってなかったってことか」
「何とでも言えばいいでしょう。俺は人間としてあなたみたいなことは絶対にできない!」
錦之助はついに何もかもかなぐりすてて父親と対峙した。
「まだ根に持ってるのか。ま、九つの息子に手ェ出すんだから初めから一生恨まれる覚悟はしてたが」
淡々と言う錦四郎の横顔には、かつて見たことのない苦味があった。それを見て、錦之助は初めて父親の胸中がほんの少し理解できたような気がした。いままでは自分のことを犯罪の被害者としか思っていなかったけれど、息子を犯さねばならなかった父もまた、同じくらい苦しんでいたのだ。白い寝巻をまとって身をなげだしてきた隠岐を前にして、錦之助も十二年前の錦四郎になっていたのだ。
「なんでこんなことしなきゃならないんだ……」
苦悩を素直に吐き出した錦之助に、錦四郎はしごく当たり前というふうに答えた。
「そんなの芸のために決まってるじゃねえか。肌の奥から匂いたつ艶が歌舞伎の神髄だ。役者は一挙一投足に色気がなきゃいけねえんだよ」
その性的魅力で客席ばかりでなく舞台の上の共演者までも虜にしてきた錦四郎は、ただ格好だけをまねして歌舞伎風味の現代劇をやっているような連中に我慢がならないのだった。その気概は錦之助にも受け継がれている。
「隠岐ちゃんは顔は可愛いけど驚くほど色気のねえ子だからなあ。師匠のお前がちゃんと指導してやらなきゃ、これから帯屋の御曹司になって毎月二役とか三役とかやっていくのに困るぞ。あ、なんなら俺が代わりに指導してやってもいいぜ」
錦之助は、にやにやと笑っている錦四郎を切れ長の目でじろりとにらみつけて、
「冗談言って殺されたら損ですよ」
と忠告してやった。
「まあ気楽にやれ。隠岐ちゃんはお前に惚れてんだから。がんばれよ」
父親のふざけた声援を背に受けて、錦之助は自室へ戻った。
隠岐は、白いネグリジェのまま、布団もかけずベッドの上にうつぶせになっていた。
「隠岐、もう寝たのか?」
隠岐は枕に顔をおしつけたままうなずいた。かわいい返事に愛しさがつのる。錦之助はベッドに腰掛け、片手で隠岐の体を仰向けにひっくり返した。隠岐は袖で顔をかくしていた。
「まださっきの気持ち変わらない?」
「え……」
隠岐は腕をおろし、大きな目をさらに見開いて錦之助を見た。錦之助がやさしくうなずくと、はにかみながらも嬉しくてたまらないというふうにニコッとした。隠岐の重たい骨ばった体に両腕を回して起こしながら、最初にここへ来た頃と比べて大きくなったなあと錦之助は思った。
「じゃあ風呂に入ろうか」
「お風呂やったらもう……」
「入り方が全然違う。来なさい、教えるから」
なるべく普段の稽古と変わらない口調で言って、錦之助は隠岐の背中を押した。
一生恨まれる覚悟を決めながら。
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