京鹿子恋山路 完結編

名古屋あき

二十六、

 あれから一週間後の十一月十六日。
 隠岐は、『源氏物語』の上演が終わったあと、私服に着替えて涼之助の楽屋へ行った。今日のいでたちは、白いカシミアのセーターとあずき色のスラックスである。ネグリジェを借りたあの夜から聡子がなにかと隠岐に自分の洋服を着せたがり、ついにクローゼットを共有することになってしまったのだ。ジーンズさえまったく同じサイズということもあって、隠岐はすっかり聡子の着せ替え人形になっている。
 隠岐は物思いにふけりながらのろのろとした手つきで浴衣をたたみ、小さく溜息をついた。終演後に涼之助の楽屋にあがりこんで無駄話をしながらこまごましたことの手伝いをするのが以前は楽しくてしかたがなかったのに、最近は気が沈んでしまう。
「どうしたの?幸せいっぱいの花嫁さんが溜息なんかついて」
 からかうような微笑みで鏡越しにたずねてきた涼之助に、隠岐は重い口を開いた。
「芝居が終わると憂鬱になるんどす」
「あら。どうして?まだ中日すぎたばかりじゃない」
「家に帰らなあかんさかい……」
 口ごもった隠岐の態度で、涼之助はすべてを察したようだった。
「どうしても帰りたくなかったらうちに来てもいいわよ。ただし、今夜だけ、ね」
 隠岐はかわいそうなほど顔を輝かせた。
「ほんまどすか?おおきに!……そいけど、お兄さんがあかんて言わはったら……」
 今度は一転して泣き出しそうな不安な顔になる。
「大丈夫、私から言っといてあげるから。帰る用意ができたら楽屋口で待ってて」
「はい」
 というわけで、隠岐は初めて涼之助の自宅を訪問した。高級住宅地成城にあってもひときわ目立つ、まさにお屋敷という言葉がふさわしい豪邸である。敷地内に広い森があって、その森を見下ろす三階の稽古場は壁が強化ガラスでできている。まるで宙に浮いたような錯覚をおこさせる設計だ。一階は駐車場とペットの犬たちのスペースで、二階は純和風の生活空間である。
 隠岐は床の間のあるリビングに通された。畳はちりひとつなく清められている。家政婦は定期的に来ているのだろうが、涼之助自身もまめに掃除しているにちがいない。
「もう六時になっちゃったわね。夕御飯のしたく手伝ってくれる?」
「涼之助はんお料理しはるんどすか」
「体調のこともあるからできるときは自分でやるようにしてるの。でも得意じゃないのよ」
 涼之助の持病には、塩分やコレステロールの多い外食が大敵なのだ。そういえば外で食事するときも半分くらいしか箸をつけていなかったと隠岐は思い出した。
 ささやかな膳のしたくがととのい、テーブルに向かい合って食べながら、涼之助は嬉しそうに言った。
「こうやってここで誰かと一緒に御飯食べるの、初めて。家族ができたみたい」
「"できたみたい"て、ほんまの家族やおへんか」
 隠岐は笑った。
「そうよね」
 涼之助も笑ったが、隠岐は、その目にきらっと光るものを見て、涼之助の孤独を思い知らされた。こんな広い屋敷でひとりぼっちで何年も暮らし、妾の子とバカにする人々や才能を妬んで潰そうとする人々と戦って芸を磨いてきたのだ。隠岐はあらためて涼之助を尊敬した。
「ところで、お家に帰りたくないってどういうこと?」
 必ず聞かれるとは覚悟していたが、いざ話そうとすると勇気がいる。隠岐はこのさい涼之助にすべてぶちまけて愚痴を聞いてもらおうと思った。
「……お兄さんと寝とうなくて」
 隠岐のまだ乳の匂いが残っているような柔らかい肌には、錦之助の上手すぎるテクニックは非常に重荷だった。六日前の朝、楽屋で待ち構えていた磨里は、首尾はどうだったかと根掘り葉掘り尋問し、隠岐を怒りと恥ずかしさで絶句させたあげくに「もったいない」と感想を吐いて出て行ったが、隠岐はそれならいくらでも代わってやるとひそかに思ったくらいだった。錦之助は最初あんなにしぶっていたくせにこまめに手を出してきて、隠岐は毎日夜が来るのが嫌で嫌でたまらない。もちろん自分から誘った手前、本心をさとられないように気をつけてはいるが、それももう限界だった。
「楽屋の人たちはみんなしてはることやのに自分だけできひんのも癪やし……男が一度言うたこと、ひっくり返すもんやないやろ」
「隠岐ちゃんは強いのねえ」
 涼之助は感心したように言った。
「でもお兄さんにはちゃんと本当のことを言って話し合ったほうがいいんじゃない?」
 隠岐はうつむいた。このまま耐え続けるのも嫌だけれど、それ見たことか、やっぱりまだ子供じゃないかと思われるのはまっぴらだ。
「大丈夫よ。わかってくれるわ」
 しょせん他人事なのか、涼之助は楽観的だった。
 涼之助がたくさんの種類の薬を飲むのを見物し、食事の後片付けをして、広い家の中をひととおり案内してもらい、マルチーズのハナと遊び、ひのきの風呂につかるともう10時になっていた。
「客間にお布団敷いてくれる?二ながれあるから、私の分も。今夜はいっしょに寝ましょ」
「わあ、畳で寝るの久しぶりや」
 隠岐は喜んで布団を敷き、毛布と羽根布団の下にもぐった。
 すると、突然玄関のチャイムがなった。隠岐は嫌な予感がした。
 涼之助が玄関に出ていく気配がしたあと、
「すみません、お世話かけまして……」
 という聞きなれた声が聞こえた瞬間、隠岐は予感が的中したことを知った。
 ふたつの足音が隠岐の寝ている客間に近づいてくる。隠岐は、掛け布団を頭の上まで引き上げて布団の中に完全に隠れた。
「隠岐ちゃん、お兄さんがみえたわよ」
 隠岐は返事もせず、いないふりをした。すると、いきなり布団の上から重いものがのしかかってきて抱きしめられ、隠岐は押しつぶされた子猫のような悲鳴をあげた。
「隠岐。どうしてこんなところにいるんだ」
 布団を無理やりはがされて、隠岐は目をそらした。
「お兄さんこそなんでここにおるん」
「お前を迎えに来たんだろうが」
「そいけど今日はここに泊まるて約束したんやもん」
 隠岐はかたくなに布団を握りしめた。
 涼之助は優しいけれども逆らえない声色で若いふたりに命じた。
「ヒロ君、今日は泊まっていきなさい。私は自分の部屋で寝るから」
「はい。お言葉に甘えさせていただきます」
「隠岐ちゃん、ちゃんとお兄さんに言わなきゃだめよ」
「……はい」
 錦之助とふたり客間に取り残され、隠岐はいたたまれなくなって布団に顔をうずめた。その耳に、ネクタイを解くシュッというかすかな音が聞こえる。隠岐は観念したが、錦之助は意外にもシャツを着たまま添い寝しただけだった。
「隠岐、お前、俺に抱かれるのが嫌なんだろう?」
「そんなこと……」
 隠岐は弱々しく否定した。
「それでいいんだ。他人に体を自由にされるのはつらいことだ」
 錦之助の言葉にあまりにも実感がこもっていたので、隠岐は思わず顔を上げて目を見た。
「そのつらさを、嫌だって気持ちを、忘れるな。それが傾城の性根だ」
 錦之助は低い声で続けた。
「傾城ってのは派手な格好して外八文字(注:花魁の独特の歩き方)書いてるだけじゃない。好きでもない客の相手して、地獄の底をはいずりまわって、でもいつかは自由になれるって信じてる」
 隠岐は目からうろこが落ちるように理解した。涼之助も鶴吉も磨里も、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、苦労に苦労を重ねてきたからこそ、あれほどの実感をもってセリフを言うことができるのだ。それにひきかえ自分は、好きな男に甘やかされているだけのお嬢さんにすぎない。
「涼之助兄さんなんて、両親が早くに亡くなったから、七つのときから幹部の玩具にされてたそうだ。おやじに会ってからつとめはやめたらしいけど、今度はあいつの飼い犬暮らし。無理がたたって心臓まで悪くして……まるで傾城そのものの人生だろ」
 隠岐はあまりのショックに言葉もなくなった。いつも優しくて明るくてなよやかな涼之助が、そんなにもつらい過去を持っていたなんて。希代の女形の芸とは、こうまでしなければ完成しないものなのだろうか。
「でも、俺はお前だけはそんな目にあわせたくないんだ。甘いってことはわかってる。女形が傾城やれなきゃ意味がないってこともわかってる。でも……」
 錦之助は隠岐を両腕に包みこんだ。
「何にもできなくていいからここにいてほしいんだ」
 かぎなれた体臭に身を預け、隠岐は今日何度目かの驚きを味わっていた。それは、錦之助が芸よりも自分の幸せのことを考えてくれていたということと、錦之助も傾城の苦しみを知っているということに対する驚きだった。
 それから間もない十一月二十八日、菱川涼之助は『源氏物語』千秋楽の舞台の上で心臓発作をおこして大学病院に入院し、手術の甲斐なく、その年のうちに亡くなった。三十九歳の若さだった。
 残されたひとり息子の松嶋隠岐は、成城の屋敷を含む莫大な遺産を相続することになった。

二十七、

 年の瀬もおしつまった十二月二十五日。街はクリスマスでにぎわっていたが、芳田家の人間は誰も涼之助の死から立ち直っていなかった。
 喪主をつとめた隠岐は、弔問につめかけた芸能界の人々や学者や報道陣に挨拶をするだけで精一杯で、納骨がすむまでは何を考えるひまもなかったが、さまざまな行事が一段落すると、初めてまぎらわしようのない寂しさが心をさいなんだ。
「可哀想ねえ、養子になったとたんに親に死なれるなんて」
 葬式の時に何度も耳にした気の毒そうな口調が脳裏にはりついている。
今日から本格的に遺産相続の問題を弁護士と相談することになっていたので、隠岐は朝早く渋谷にある大手の法律事務所へと出かけた。話し合いは、親子ということの法律的なつながりをひたすら確認させられる作業だった。涼之助の総資産は十億ほどで、相続税がかなりかかるため、成城の土地の半分、森になっている部分は売却することになった。
「家はどうします?お住まいにならないんでしたら貸し家にするという方法もありますよ」
 担当の若い女性弁護士は、遺族を気遣う静かな物言いを身につけている。
「いえ、そのままにしておいてください」
「ではハウスキーパーだけ解約しておきます」
 隠岐は未成年ということもあり錦之助が付き添ってくれたが、これがまた頼りにならないことはなはだしい。錦之助は葬儀のとき人目もはばからず棺にとりすがって、普段の冷静さからは考えられないほど泣いた。生まれた時から可愛がられていた分、隠岐よりもショックが大きかったのだろう。亡くなって一週間過ぎた今も抜け殻のような状態である。
 しかしいつまでも泣いてばかりではいられない。役者には芝居がある。
 来月、つまり年が変わって正月の京都河原座歌舞伎は、錦四郎と涼之助主演の『助六』を最大の売り物にしていた。涼之助がいない現在、揚巻役は空白のままである。
「隠岐、お前やるか?」
錦之助は法律事務所から帰る車の中で思いついたように聞いてきた。自分がどんな大変なことを言っているかもわからないようすである。
「はあ?」
「白玉やりたいって言ってたろ」
「白玉と揚巻は違うやろ」
 隠岐がさすがにあきれて言うと、
「いいじゃねえか。そのほうが兄さんも喜ぶ」
「うちに揚巻なんて早過ぎます」
「十六だろ?たしか揚巻もそのくらいの年だよ。大丈夫、やっちまえよ」
「人のことやと思うて……」
 正月歌舞伎の初日まで、あと七日しかない。冗談だろうと思っていたが、なんとその日、歌舞伎役者協会の会長から電話がかかってきて、正式に隠岐に涼之助の代役を頼みたいと言ってきたのだった。縁起を担ぐ女形たちは、死んだ人の代役なんて気持ちが悪いと断ったらしい。心の底では若輩の涼之助の代役などしたくないのかもしれないが。
 さっそく明日から菱川鶴之丞のところに稽古に行く段取りをつけ、隠岐は信じられない思いで電話を切った。思えば三ヶ月前の九月公演の千秋楽、涼之助に、阿古屋がよくできたごほうびといって白玉の役をもらったのだが、錦之助の許しがもらえずだだをこねた。そしてそれがきっかけで錦之助と関係を持つようになったのだ。なんだかもうずっと遠い昔の出来事のような気がする。
 夜になって布団に入ると、様々なことが頭の中をめぐり、ふとした拍子に涼之助の笑顔や声が生々しく甦ってきて、涙が止まらなくなった。錦之助にわからないよう声を殺して泣いていると、隣から自分のではないすすり泣きがきこえてきた。
「お兄さん……?」
 錦之助は無理に震えを抑えたとわかる声で、
「何だ?」
と答え、手の甲で顔をふいた。隠岐は思わずぽろりと口に出してしまった。
「抱いておくれやすか?」
「おっ」
 錦之助はにやっとした。隠岐は久しぶりに錦之助の笑顔を見た、と思った。
「どういう風の吹きまわし?」
「今夜は何も考えとうないんや」
 その晩、錦之助は確かに隠岐に何も考えさせなかった。二人は一時だけでも悲しみを忘れようと無我夢中で互いにすがった。
 そんな夜が幾晩か続いたあと、大晦日がきて、元日の舞台稽古がきて、二日の初日が開けた。芳田家はまた一家で京都に移り、例によって善興寺のお堂に宿泊することになった。ただし今度は聡子が客間を与えられ、本堂に寝るのは錦之助と隠岐の二人だけだったが。
 河原座は、小雪の降る寒さにもかかわらず、地元出身の十六歳の少年がつとめる揚巻を見ようという人々で大入り満員だった。直前に父親が死んで息子がその代役をやるということも、観客にとっては、おもしろい話題のひとつにすぎない。
 花道から花魁道中で生酔いの揚巻が登場すると、客席にジワが走った。単純に美しいというだけでなく、幼い体に不似合いなほどの色気がまとわりついており、うるんだ瞳が完全に酔っている。いやなお客の意休に向かって悪態をつく場面でも、地唄で鍛えた高低の美声を自在にあやつって奔放に言いたい放題言ってのけるあたりは拍手喝采の小気味よさだった。錦四郎の助六とはさすがにまだ釣り合いがとれているとはいえなかったが、観客の視線を一身に集める圧倒的な"華"で十分に主役を張った。
 隠岐は実は出の前に日本酒をお猪口に三杯飲んでから出ていた。錦之助には猛烈に反対されたが、どうしてもと押しきったのだ。以前ならこんなことは考えられなかった。隠岐は、もう、何もかも錦之助に頼りっきりになるのはやめようと思っていた。自分は帯屋という家の伝統を背負っている。それは錦之助にはどうすることもできないものだ。自分の力でやっていくしかないのだ。
 この揚巻役で、隠岐は『早熟の天才』『亡き涼之助の唯一の後継者』という評価を確立した。それからは涼之助がやることに決まっていた役をすべて代わりにつとめ、急激に花形スターへと成長していったのである。
 毎月二役も三役も新しい役をつとめなければならないため、一日中舞台に出ているか稽古しているかのどちらかで息つく暇もない厳しい生活を、隠岐は死に物狂いでこなしていた。覚えなければならないこと、失敗の許されないことが山積みで、一日が終わるたびに神経がすりへりくたびれきってしまう。
 その年の五月には、東京歌舞伎劇場で『熊谷陣屋』の相模に『髪結新三』のお熊、そして『藤娘』という大役を三つやっていた。頭がパニックになりそうな三日間の集中稽古を終えてやっと無事に初日が開いた夜、隠岐は居間のソファーにちょっと座るつもりがいつのまにか眠りこけていた。
「隠岐さん、隠岐さん、風邪ひくよ」
「うん……」
 起こされて、聡子の顔をみると、つい深深とため息をついてしまった。
「お疲れですね」
 聡子は隣に座って、隠岐の肩をもんでくれた。
「なあ……聞いてもええ?」
「なに?」
「すごく好きやった人を、べつにその人が悪いことしたわけやあらへんのに、もうどうでもよくなってしまうことってあると思う?」
「お兄さまのこと?」
 隠岐は無言で肯定した。
「隠岐さんはいま忙しすぎて疲れてるのよ」
「そいけど、お兄さんと二人だけでおって暇になっても困るわ。……なんでやろ。あんなに何するのもどこ行くのも一緒やったのに、いまは、ひとりでいろんなとこ行ってみたいしいろんな人と付き合いたい」
 聡子はやさしく、
「いいんじゃないの?それで」
 と言った。高校ニ年になった聡子は、かわいらしさはそのままに賢そうな大人の顔つきに変わってきていた。年よりずっとしっかりして見える。隠岐は、最初に聡子に会ったときに抱いた強い憧れがまだ少しも薄れていないことに気付いた。
「お兄さんに悪いと思わへん?」
「仕方ないわよ。正直に言ったらきっとわかってくれるわ」
 隠岐はそのせりふをどこかで聞いた気がした。そうだ、最初で最後に涼之助の家へ招かれたとき、錦之助と寝るのが辛いとこぼした隠岐に、涼之助は
「大丈夫よ。わかってくれるわ」
 と言ってくれたのだった。隠岐は急に悲しくなって、膝の上にぽたぽたと涙を落とした。
「どうしたの?」
 わけのわからない聡子はびっくりしたが、何も言わずにそっと隠岐の背中に腕を回して抱擁してくれた。隠岐は聡子の肩に額をあずけ、涼之助が死んでから初めて号泣した。

二十八、

 それからニ年後、十八歳の五月を迎えた隠岐は、もはや押しも押されもせぬ花女形になっていた。今月は隠岐のつとめる『八百屋お七』の人形振り(注:文楽の人形のように動く踊り方)が大当たりを取り、劇場のある銀座一帯がなんとなく活気づいているほどだ。
 もともと隠岐の芸風は、立役に寄り添って相手を引き立てるというより、広い舞台の上で一身に観客の視線をひきつけるタイプである。だから、存在感を時によっては殺さなければならない芝居よりも、一人で踊る演目のほうが、見えない世界を構築する特殊能力を遥かに強く発揮できた。初舞台の『羽根の禿』、『汐汲』、『藤娘』、『八百屋お七』など一連の女形舞踊の成功がそれをよく物語っている。
 それと正反対の芸風を持つのが菱川鶴吉であった。芝居の遊女役には定評があるものの、派手な一人舞台や地力を必要とする舞踊はいまひとつかんばしくなく、隠岐に一歩も二歩も遅れをとっている。
 鶴吉は楽屋で化粧をしようとしていたところに三国屋の番頭から来月の配役表を受けとって、ぴくりと眉を動かした。
「何?これ」
 畳の上に紙をたたきつける。
「出ないわよ、あたし」
 来月の出し物が『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』だということは前々から決まっていた。その芝居に出てくるお岸という若女形の役を、鶴吉は当然自分がやるものと思っていたのだが、配役表には隠岐の名が書かれていたのである。
「まあまあ若旦那、そこは抑えておくんなさいよ。若旦那にはほら、『官女』って大役があるじゃございませんか」
 番頭はなだめたが、それもまた鶴吉の不機嫌のもとだった。『八島官女』を踊ったら、そういう出し物が大得意な隠岐とくらべられて、やっぱり隠岐のほうがいいなどと言われるにきまっている。唯一の得意分野だと自他ともに認めるけなげな遊女役を隠岐に奪われたうえ、そのかわりに不得手な一人立ちの踊りをやらされるなんて、屈辱にもほどがあるというものだ。
 鶴吉はうすい唇をきりきり噛んだ。舞台のこと以外にも気に食わないことは山ほどあった。最近、父の鶴之丞は隠岐に教えるのに忙しく、ちっとも自分に稽古をつけてくれない。実の息子をさしおいてそのライバルに稽古をしてやる父の気持ちが鶴吉にはまるきりわからなかった。それに、一度は思いを果たした錦之助との仲も、近頃は冷えきっている。錦之助はもう誰にかまうことなく隠岐への好意を明かにしていた。体のつながりがあることも磨里から聞いた。二人が目と目で会話するのを見るたび、鶴吉は傷ついた胸を押さえて顔をそむけるのだった。
 鶴吉が積もり積もった恨みをついに爆発させたのは、配役表が配られた次の週の終演後だった。まずホテルの一室を予約し、従業員を買収し、中のすべての電話に細工をした。下駄番に札をにぎらせ、隠岐が来たら、「十一時、帝国ホテル2017号室で待つ。錦之助」と書いたメモを渡してくれるよう頼んだ。錦之助の筆跡は昔から真似しているので本人と見分けがつかないくらい上手く書ける。そして、いっぽうで自分に想いを寄せる役者を色仕掛けで落とし、帝国ホテルの2017号室に錦之助のワイシャツとネクタイを届けてくれるようにと蓬莱屋の者を装って聡子に電話をさせた。
「錦之助のお気に入りが、その妹とホテルで密会してたらマズイわよね」
 鶴吉は思わず笑みがこみあげてくるのを押さえながら、いくつかの雑誌社とテレビ局にタレコミFAXを送った。これで仕掛けは完璧だ。
 さて、隠岐はメモを受け取ると疑いもせずにそのままタクシーに乗り、帝国ホテルへ行って、鶴吉が錦之助の名を使って予約した2017号室へ直行した。だが、ドアベルを押しても錦之助はいないようだったので、フロントへ聞きに行った。
「松嶋錦之助様は現在外出されておりますが、松嶋隠岐さんにキーをお渡しするようにとうけたまわっております。失礼ですが松嶋隠岐様でいらっしゃいますよね?」
 フロントの対応にも別段疑問を持たず、隠岐は「はい」と答えた。こういうとき顔の売れている芸能人は身分証明がいらなくて簡単だ。
 隠岐は豪華なダブルベッドのある2017号室に入り、お茶をいれて一息ついた。錦之助は十一時にここで待つということだったが、もう時計は十一時五分前である。何のためにこんな高級ホテルをとったのだろう。隠岐は、金糸でばらを刺繍したカバーがかかっているベッドを見ながらため息をついた。錦之助が来る前にシャワーでも浴びておこうかと思ったとき、ピンポンとチャイムが鳴った。
「はい」
 錦之助だろうと思って確かめもせずに開けると、
「あれ、隠岐さん」
 ピンクのワンピースを着て紙袋を持った聡子が立っていた。
「なんで?」
 隠岐は逆に聞き返した。
「錦治郎さんから電話があって、これ届けに来たの」
「ああ、おおきに。お兄さんまだ来てへんのやけど、お茶入れたさかい飲んでいかへん?」
「じゃあちょっとだけ」
 大学生になりたての聡子は、よく手入れされた長い髪をそのままおろしている。いままでは校則にしたがってひとつに結んでいたので、おろすとずいぶん長く見えた。光沢のある麻のワンピースは聡子以外の人には着こなせない高級品である。
 聡子はソファに紙袋を置き、その隣に腰掛けた。隠岐はそなえつけの白い湯のみに茶を注ぎ、「どうぞ」とテーブルに差し出した。
「ありがとう」
 そのとき、外からそうっと部屋のドアに鍵がかけられたのを隠岐も聡子もまったく気がつかなかった。
 十一時になったら来るはずの錦之助が十五分過ぎても来ないので、隠岐が心配になり始めたころ、聡子は椅子から立ち上がった。
「もうそろそろ帰るね、遅くなるから。お兄さまによろしく」
「わかった。ほな。わざわざ持ってきてくれてありがとう」
「隠岐さんがお礼言うことないわよ。それじゃあまた明日」
 聡子はドアノブに手をかけたが、スムーズに開くはずの部屋のドアはまったく開かなかった。
「ちょっと隠岐さん、ドア開かないんだけど」
「え?」
 隠岐は駆け寄ってがちゃがちゃノブを回したが、うんともすんともいわない。ドアを叩いてみたが、防音設備が整っているためか人通りがないからか、誰も気付かないようだ。
「フロントに電話してみたら?」
 聡子の助言で内線電話をかけてみたが全然つながらない。内線だけでなく、外線も使えなかった。
「聡子ちゃん、携帯持ってへん?」
 聡子は首を横にふった。
「充電してたからそのまま置いてきたの。隠岐さんは?」
「今日楽屋で盗まれたんや」
 聡子はそれを聞いて表情を険しくした。
「これは計画的かもしれないわね」
「お兄さんが来るの、待ってるしかないなあ」
「……たぶん来ないでしょうけど」
 隠岐はびっくりした。
「どういうこと?」
「わからない?私たちは誰かにこの部屋へ閉じ込められたの」
「なんでそんなこと……」
 隠岐には、そんなことをする人間がいるとは思えなかった。自分はともかく聡子まで一緒に閉じ込めてどうしようというのだろう。
 時間は刻々と過ぎていき、隠岐たちは外とコンタクトをとるためにさまざまな方法を試した。窓から叫んだが二十階では声が届くはずもなく、火災報知機を鳴らそうと思っても、ホテル全体が大騒ぎになることを考えると実行に移せなかった。
「聡子ちゃん、眠いやろ。寝ててええよ、うちがなんとかやってみるさかい」
「ううん、大丈夫。いま一時でしょ?あんまりおそくなったら家の人が気付いてくれるはずだから、もうすぐ迎えが来るわよ」
「だったらええけど……」
 隠岐はもう一度部屋のドアを開けようと試みた。すると、さっきまでどんなにがんばっても開かなかったのに、拍子抜けするほどあっけなく内側に開いたのだ。
「開いた!」
「ほんと!?よかったぁ」
 聡子は心からほっとしたように笑った。
「それじゃ一緒に帰りましょ。お兄さまのメモは嘘だってわかったし」
 聡子は紙袋を持って部屋を出た。
「うん。早う帰ろ。こんなに遅うなってしもて、お兄さんに怒られるわ」
 そうして二人が部屋を出て廊下を歩き始めたのを、後ろの角に隠れていたカメラマンが静かにすばやく撮影していた。そしてホテルを出てタクシーに乗りこむところも、離れたところにあらかじめ張り込んでいた別のカメラマンがフラッシュをたいて撮影した。
「いま何か光らなかった?」
「そうかなあ」
 隠岐が首をかしげると、
「なんだか嫌な気がするの。ここに来た時から、誰かに見られてるような……」
「気のせいやろ。家に帰ってゆっくり休みよし」
 それが気のせいではなかったことに気付くのは、翌朝のことだった。外が騒がしいと思ったら、マンションが数十人のマスコミ軍団に取り囲まれていたのだ。
「あなた、何やったの?」
 朝子が錦四郎に疑いの目を向けた。
「俺じゃねえよ」
 騒ぎの理由がわかったのは、いつも朝御飯を食べながら見る民放ニュース番組の芸能コーナーで、『天才歌舞伎女形・松嶋隠岐が師匠の妹とホテルで密会』というスクープを見たときだった。
「はあ?」
 家族じゅうが間の抜けた声を発したあと、錦四郎は吹き出し、錦之助と朝子は心配そうに眉をひそめ、聡子はため息をつき、隠岐はぽかんと口をあけた。
「変だと思ったらこういうことだったのね」
「いったい誰がこんなこと仕組んだんだ」
「すんまへん……」
「いいのよ。事実はないんだから。記者会見開く?」
「いらねえよ。好きに騒がせときな」
 錦四郎はゆったりとコーヒーを口に運んでいる。
「ちゃんとやってよ、記者会見。これじゃ学校にも行けないじゃない」
「聡子ちゃん、かんにん」
 隠岐は聡子にすまなくて仕方がなかった。自分は役者だからスキャンダルで人生が変わることも有り得るが、聡子まで巻き込むことは許されない。だが聡子は隠岐よりよほど肚がすわっていた。
「気にしないで。すぐ誰かの罠だって証明されることだから」
 隠岐はその言葉になぐさめられながら、ある思いつきがふと浮かび、それが頭にこびりついて離れなくなった。

二十九、

 『許されぬ恋・梨園のオキテ』『相手は兄?妹?禁断の三角関係』『芳田家のマル秘寝室事情』……。
 鶴吉の仕組んだあの事件以来、ゴシップ系週刊誌には毎回こんなたぐいの見出しが踊っていた。ある雑誌には聡子の高校時代の水泳大会で撮られたスクール水着姿の写真までも掲載された。隠岐はマスコミ陣に群がられながらも錦之助にガードされて毎日舞台に出ていたが、聡子は、親のすすめもあって大学を休学している。
「ほんま、かんにんな、聡子ちゃん」
 隠岐は、年頃の女の子がこんな噂を日本中に垂れ流されて深く傷つきはしないかと心配だった。だがそれは聡子とて同じことで、
「私のほうこそごめんね。せっかくお舞台もうまく行き始めたところだったのに」
 とすまなさそうな顔をする。
 二人は夜の台所で向かい合って茶をすすっていた。錦之助が風呂に入っている音がかすかに聞こえる。両親は贔屓筋に呼ばれて付き合いに忙しく、今夜は遅くなると言っていた。なんだか最近、とくに朝子がいそいそと動き回っているのが聡子には気になったが、聞いたところでぺらぺらしゃべるような母ではないので放っておいた。朝子が何をたくらんでいるかはいずれ明らかになるだろう。
「お兄さんお風呂上がったかな?」
「一緒に入ってきたらいいじゃない」
「なんで?」
 隠岐はあからさまに嫌そうな顔をした。
「やっぱり気にしてるの?報道のこと」
 聡子の心配は的中したらしい。隠岐と錦之助との仲を、想像をたっぷりまじえていやらしく書きたてた記事の数々は、周りが気を使って目に触れないようにしていても、隠岐としては読まずにいられない。その結果、錦之助との関係に嫌悪感をもよおすのは自然なことだった。もちろん、聡子とのホテル騒動から錦之助との同性愛関係にまでマスコミの攻撃の的が広がったのは、鶴吉があおったせいである。
「それだけやないんや。もともと、あんまり好きやなかったさかい」
 うつむいて言った隠岐の背後から、
「へえ、そうだったのか」
 とバスローブ姿の錦之助が現れた。
「お兄さま……」
「聡子はもう寝ろ」
 いつもとまったく同じ落ち着いた声である。聡子は隠岐が何かされるのではないかと怖かったが、自分がいるべき場面ではないと思ったので黙って部屋に引き上げた。
 錦之助は隠岐の正面の椅子に座った。
「あ、お茶……」
 隠岐が立とうとすると、いらないと止められた。
「お兄さん、ごめんなさい、あの……好きやなかったいうのは嘘やで。聡子ちゃんにからかわれとうなかったさかいについ言うてしもたんや」
「隠岐。お前何か勘違いしてないか?別に俺を無理して好きになる必要はないんだぞ。我慢して言うなりになる必要もないし。お前はもう一人前になった」
「お兄さん……」
 隠岐は知っていた。錦之助がどんなに自分を愛しているか、そしていままでどれだけ身を呈して隠岐をかばってきたのかを。考えてみれば年なんて五歳しか違わなかったのに、錦之助は、歌舞伎界を牛耳る古狸たちから隠岐を守るために必死に背伸びしていたのだ。
「俺だって初めからお前のことは弟子としか思ってなかったからな」
 そう言ってくれることさえ深い愛情の表れだった。錦之助にとってはスキャンダルなんて何ほどのことでもなかったにちがいない。
「おおきに……うち、お兄さんのこと大好きどす。ずっとずっと死ぬまで大好きや」
 隠岐の目から涙がぽろぽろ出てきた。
隠岐はこの瞬間になってやっとわかった。自分は錦之助の愛には応えられないということに。弟子入りしたてのころ、何もかもが憧れの存在だったお兄さんのそばに二十四時間ぴったりとよりそい、舞台の味もキスの味も酒の味も全部お兄さんから教わった。同じ物を食べ一緒に風呂に入り同じ布団の中で抱き合って眠った。そんな生活を続けていて、柔らかい少年の心は、すっかり錦之助の色に染まってしまったのだ。錦之助しか見えなくなってしまっていたのだ。そんな状態で落ちるべくして恋に落ちた。だが、少し大人になり錦之助のことも自分のことも客観的に見られるようになったいま、錦之助への「好き」が変化しはじめた。恋人としての「好き」から、家族としての「好き」へ……。
 錦之助はすべてを最初から予見していたかのように、苦笑して、泣きじゃくる隠岐の頭をなでた。
「俺も好きだよ。死ぬまで好きだ」
 そのとき、玄関の鍵が開けられる音がして、錦四郎と朝子が帰って来た。
「ちょっとちょっと、大ニュースよ!」
 朝子の声のトーンはいつもよりずいぶん高くなっている。敏腕マネージャーの朝子がこんなに興奮することなどめったにないことだ。
「何どすのん、おかみさん」
「隠岐ちゃん、おめでとう」
 朝子はスプリングコートも脱がないまま隠岐をぎゅっと抱きしめた。
「再来年の正月に六代目涼之助襲名が決まったの。あなたが涼之助になるのよ。お父さんのあとを継いで。ほんとに、秋穂ちゃんが生きてたらどんなに喜ぶでしょうねえ」
 隠岐はあまりにも思いがけないニュースに涙も引っ込んでしまった。
「隠岐が涼之助?」
 さすがの錦之助も驚いている。
「ああ、上の役者たちはみんなオーケーしてくれたし興行主も大喜びだ。隠岐ちゃんいま十八だろ?再来年っつったら二十歳だからちょうど区切りもいいしな」
 錦四郎は酒もだいぶ入って機嫌がいい。それはそうだろう。世間の人々に不名誉なスキャンダルを忘れさせるには、隠岐が大名跡の涼之助を襲名して帯屋を復活させるというのは絶好の話題だ。朝子が最近忙しくしていたのはこの根回しのためだったらしい。
「何かあったの?」
 聡子が台所に入って来た。
「隠岐が六代目涼之助を襲名するんだ」
「ええっ、すごいじゃない!おめでとう」
 まるで自分のことのように嬉しそうに笑顔でおめでとうと差し出してくれた聡子の手を握りながら、隠岐は、スキャンダルの発覚した日以来ずっと考えつづけていたことに決着をつけた。
「聡子ちゃん」
「なあに?」
 甘い香りのする髪を見下ろして、いつのまにか聡子の身長を追い越しているのに気がつく。
「聡子ちゃん。うちと結婚せえへん?」
 聡子はびっくりしてぽかんと口を開けたが、それはその場にいた両親と兄も同じだった。

 隠岐が二十歳を迎えた誕生日に、二人は正式に婚約した。
 そして来月に涼之助襲名を控えたあわただしい十二月、小雪の降る中を、隠岐と聡子は一緒に京都へ挨拶回りに出かけた。和服姿にショールをまとった相合傘の二人は、どこから見ても若夫婦である。
 まず向かったのは祇園の梅原茂波の家である。そこは二人がはじめて出会った場所でもあり、錦之助が隠岐を見初めた場所でもあった。
「こんにちは、隠岐どす」
 インターホンを押すと、茂波は寒いので玄関まで出てこられないと答え、隠岐たちは勝手に稽古場へ上がった。
「まあまあ聡子ちゃん、大きならはって……」
 茂波はしわに目をうずめるようにして聡子に笑いかけた。現在八十七歳のはずだが、足腰も頭も異常なほどしっかりしており、華さえ感じられる。
「ご無沙汰致しております」
「それにくらべて隠岐は変わらんな。先月の『阿古屋』見せてもろたけどなんやあれ。中学生の頃の方がよっぽどうもおしたわ」
「そらどうもすんまへん」
 口の減らないのも相変わらずである。
「あの、茂波先生、これつまらないものですけど襲名のお配り物なんです。どうぞお納めください」
 聡子は特注の扇子と手拭と半襟のセットを風呂敷包みから取り出した。
「おおきに。襲名て、お兄さんの?」
「まあ先生ったら……」
 隠岐は耳の遠い老人に言うようにわざと大きな声で言ってやった。
「うちが襲名するの。義父の名前の涼之助を」
「へえー。世も末やな。そやけど、なんで隠岐の襲名に聡子ちゃんが付いてきて挨拶せなあかんの」
 茂波はわざととぼける。隠岐と聡子は恥ずかしそうに笑って顔を見合わせた。
「うちら、来年いっしょになるんや。知ってはるんやろ?相変わらずお人が悪おすなあ」
「それで、何踊るん」
「来月は東京で道成寺。二月にはこっちで藤娘」
「道成寺、ふうん……」
 何を思ったか、茂波はふいに立ちあがり、稽古場の舞台へとすすみでた。
 そして、無音のままに扇を構え、舞い始めた。
 隠岐にはすぐにその舞が地唄の『鐘ヶ岬』だとわかった。『鐘ヶ岬』は長唄・娘道成寺の地唄版である。歌詞はほとんど同じで、作曲と振付が異なる。能を取り入れた抽象的な動きの中にさまざまな女の情念が閉じ込められた、難しい作品だ。
 茂波の舞は、絶頂期を通り越して到達した枯淡の境地にありながらも、女という生き物の生々しさと恋の恨みをこれ以上ありえないほど美しく描き出した。その芸の力強さと精彩には、二十歳の隠岐の時分の花をもってしても到底かなわないだろうと思われた。隠岐はただ呆然と茂波の舞にうたれていた。
 茂波は舞い終わって急にたよりなくなった足をひきずって座布団に落ち付くと、隠岐を見てにたっと笑った。
「はいおしまい。一万円置いて行きや」
「こんなん見てしもたら、もう踊れへんわ」
「隠岐さん……」
 聡子は心配した。襲名前の肉体的にも精神的にも調整が重要なときに、余計なショックを与えてしまったのではと思ったのだ。
「まあ、できるだけ努力さしてもらいます」
「そらええことや。期待してるえ」
 隠岐たちはそのあとすぐ茂波宅をいとまして、祇園の茶屋や置屋を回り、日帰りで東京に帰った。
 次の日から、隠岐は人が変わったように激しく踊りの稽古を始めた。

 年が明けて一月二日、隠岐の六代目涼之助襲名披露公演の初日がやってきた。
 初めて自分ひとりのために与えられた楽屋でこしらえをすませた隠岐は、まっさきに錦之助のところに挨拶に行った。
「長い間、お世話になりました。お兄さんのおかげでここまで来ることができ……」
 思わず胸がつまってしまい、涙が溢れ出しそうになるのをこらえている隠岐を、錦之助は一度だけ、息もできないほど強く抱きしめた。
「さあ、柝が鳴ったぞ。行ってこい」
「はい」
 四階席の一番上まで立見でいっぱいになった阿国座で、隠岐の初役『京鹿子娘道成寺』の幕が開く。
「花のほかには松ばかりーィー 花のほかには松ばかりーィー」
 枝垂れ桜の振袖を着た白拍子が謡にのってしずしずと舞台に歩み出た。超満員の客席の熱気と視線が隠岐の小柄な体ひとつに押し寄せる。隠岐は、いや、六代目涼之助は、その強大なエネルギーをはね返すようにして輝いていた。ひと足踏み出すごとに日本一の女形の名前にふさわしく成長していくのがどの観客の目にも明らかで、客席は水を打ったように静まり返っている。
 それまで真剣に舞っていた白拍子が自身の内に眠る清姫の恨みに身をまかせ、グッと鐘を見込んだ瞬間。
「帯屋ァ!」
大向こうから隠岐に初めての掛け声が飛んだ。

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