今年四歳になる石森健介は、阿国座の楽屋が大好きだ。
薄暗くてちょっとほこりっぽいけれど、健介が黒衣姿でちょこちょこ歩いていると、たくさんの大人たちが話しかけてくれたり遊んでくれたりするし、父親の友達の楽屋に「おはようございます」と入っていくと、「よくごあいさつできたね」といってお菓子をくれたりもする。それに、いつも音楽が鳴っていてお芝居をやっている。健介にとって、これほど刺激的でおもしろい場所はない。
今日、一月二日は正月興行の"しょにち"で、今年いちばん最初にお芝居をやる日だ。健介の母親は、いつもは桐のタンスにしまってある上等の着物を着て、きらきら光る小さなかんざしを髪にさして、美しくお化粧をして、ほんとうにきれいだった。
「ママ、どうしてそんなにきれいなの?」
健介がそう言うと、母親はぎゅっと息子を抱きしめた。白粉のいい香りが小さな鼻先にぷうんと漂う。
「うわあ、ありがとう健ちゃん。ママきれい?」
「うん。パパよりきれいだよ」
すると母親は突然大きな声で笑い出した。健介が不思議そうな顔で見上げると、
「そう? ありがと。じゃ、パパのところ行こうか」
と、笑い涙のにじんだ目を細めてにっこり微笑んだ。
パパの楽屋は、健介の大好きなポケモンの絵がついたのれんがかかっているので一目瞭然だ。
しかし入っていくと父親はいなくて、番頭のテルさんというおじいさんが留守番をしているだけだった。テルさんは昔、健介のひいおじいさんの下で修業していた役者だったけれど、もう芝居はやめて、楽屋の掃除係をしていた人だ。それを健介の父が拾い上げて帯屋の番頭にしたので、テルさんはとても恩義を感じているらしい。
「これはどうも奥様、ぼっちゃま、あけましておめでとうございます。やあ、今日はいっそうお美しゅうございますなあ」
母親はおめでとうございますと返しながらホホホと笑った。
「パパよりきれいだってほめられたのよ。健介に」
「そりゃあまた……」
テルさんもハッハッハッと笑った。そして健介に向かって、
「お父様も今日はお母様に負けないくらいおきれいですよ。いま挨拶回りに行ってらっしゃいますけどね」
「見たい!」
健介はぴょんと立ちあがった。
「お着物着せて、テルさん」
「ください、でしょ、健介」
「お着物着せてください」
「はいはい、こちらへいらっしゃい」
正月の晴れ着として着せられた三つ揃えのベストが窮屈で、早く脱ぎたくてしかたがなかった健介は、特製の黒衣に着がえさせてもらってさっそく廊下に飛び出した。
「こら、どこに行くの!」
「パパ探しにいく!」
「楽屋をうろうろしちゃだめっていつも言ってるでしょ。おじちゃまのところで待ってなさい。パパもママもじきそこへ行くから」
「はあい」
よい子のお返事をして、健介はスキップで外へ出た。振り返ってポケモンに敬礼し、さあ楽屋探検の始まりだ。
前を通るときはいつも必ずお参りするお稲荷さんに手を合わせたあと、ひとつひとつの楽屋にのれんの下から首をつっこんで父親のスリッパがないかどうか探していく。人がいっぱいいるところは避けていったが、正月興行の初日は開演前の楽屋を訪れるお客さんも普段のニ、三倍いて、健介は何度も大人の足にぶつかりそうになった。途中、何人かの裏方さんから「あけましておめでとう」と頭をなでられた。
結局パパは見つからなくて、健介はあきらめ、母の言いつけどおり伯父の楽屋へ行った。
「あっパパ!」
やっと見つけたスリッパ……ブルーのギンガムチェックはまぎれもなく父の愛用のものだ。健介は小さな草履を脱ぎ散らかして伯父の楽屋にとびこんだ。
父と伯父は、すごく楽しそうに、赤い盃でお酒を飲んでいた。あれは"おとそ"って言うんだよ、と昨日誰かに教えてもらったような気がする。健介がタッタッと入っていくと、父の厳しい声が飛んだ。
「人様の楽屋に入る時はご挨拶するんやろ。黙って入ってきたらあかん」
健介は怖くてちょっと泣きそうになったけれども、畳に座ってちょこんと両手をついた。
「石森健介でございます。あけましておめでとうございます」
去年のうちから何度も練習させられたとおりに大きな声で口上をのべる。
「はいようできました」
父親はやっとやさしい顔になった。
テルさんが言っていたのは本当で、父親は、いつにもまして美しいこしらえをしていた。桜や楓の刺繍が目にもあざやかな真紅のうちかけの下に、金糸で隙間なく縫い取りをほどこしたたまご色の振袖。顔も酒のせいかほんのり桜色に染まっており、とても四歳の息子がいるとは思えないかわいらしさだ。
今月の昼の部は、御祝儀の『式三番叟(しきさんばそう)』のあとに『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』の通しという内容である。父の菱川涼之助と伯父の松嶋錦之助は『桜姫東文章』の主役、桜姫と権助を演じる。いちど夜這いに来た権助が忘れられず、権助の子を生んで腕に同じ彫り物をした桜姫。のちに二人は偶然めぐり合い、権助は桜姫をさらって駆け落ちするが、すぐ遊女屋に売り飛ばしてしまう。ついには、権助が実は桜姫のお家の宝を盗んだ犯人だったということがわかり、桜姫は権助を殺して宝を取り戻しめでたしめでたしとなる。男と女の激しくも不思議な関係、もつれにもつれた運命の糸を、歌舞伎界のゴールデンコンビがどう演じるのか。いま、観客たちの期待は最高潮に達しているはずだ。
だが権助役の錦之助はまだ支度にもとりかからず、ラフな浴衣姿であぐらを組んでいる。
「健坊、上手にご挨拶できたなあ」
そう言って手招きするので、健介が伯父の膝のすぐそばまで近づいていくと、
「ほら、お年玉だ」
と畳の上に二つのお年玉袋を並べた。
「中は見ないで、どっちでも好きなほうを選びな」
健介は、ようしと張りきった。右の袋を手にとってみると、まるで何も入っていないかのように軽い。それに振ってみてもなんの音もしない。反対に左の袋は、持ち上げるのも重たくて、振るとじゃらじゃらと大きな音がした。
「こっち!」
健介は、父親の祈るようなまなざしにも気づかず、迷わず左の袋を取った。隠岐はひそかにため息をつく。一万円札でも入っていたら、子供の靴なり洋服なり買えたのに。
錦之助はそんな隠岐のようすに気づいたのかどうか、意外な行動をとった。
「じゃあ、こっちの袋はパパにあげよう」
と隠岐に軽いお年玉袋を手渡したのだ。
「そんな、うちにまで気ぃ遣わんといてください」
隠岐はびっくりして手をふった。十五で弟子入りしてから今までの十年間、お年玉なんてもらったことは一度もなかったからだ。だが錦之助は有無を言わさぬ調子でおしつけた。
「いいからもらっとけ」
「おおきに、すんまへん」
お年玉をもらったとたんに父親のことは忘れてしまっていた健介は、さっそく中身を確認していた。じゃらじゃらと畳の上に出すと、種類の違うお金がひとつずつ入っていた。一円玉、五円玉、十円玉、五十円玉、百円玉、五百円玉。どれも磨き上げたようにピカピカ光っている。健介にはまだわからなかったが、すべて今年の年号が刻まれている真新しいコインなのだ。
「隠岐、中見なくていいのか?」
錦之助はおとそ気分で楽しそうだ。隠岐は、普通もらったお金の額などその場で見るものではないけれどもお年玉だしいいか……と軽い気持ちで中をのぞいた。
その次の瞬間。
「お兄さん!!何考えてはんの!」
父親のいきなりのわめき声に、健介はきょとんとして目をまるくした。
「だから、俺からのお年玉さ」
「もし健介がこっち選んでたらどないするつもりやったん!?」
隠岐は顔をますます赤くして激怒している。錦之助はまあまあとなだめた。
「そのときはそのとき。選ばなかったんだからいいじゃねえか」
「許せへん!」
「新年早々カッカするなよ。ツキが逃げるぜ」
「お兄さんこそ新年早々こんないたずらせんといてください。…ったく三十にもなって子供なんやから」
「うっ、隠岐に子供と言われてしまった……」
胸を押さえて傷ついたふりをする伯父がおもしろくて、健介はキャッキャッと笑った。隠岐もいつまでも怒っていられず、笑い出す。
そこへ母親の聡子もやってきた。
「おめでとうございます」
「ママ、おじちゃまにお年玉もらった!」
「あらよかったわねえ。ちゃんとお礼言った?」
「あ……」
健介はあわてて伯父さんにむかって畳の上に両の手のひらで三角をつくった。お辞儀をするときは手のひらで三角をつくってそのなかに鼻を入れるようにしなさい、と教わっているのだ。
「ありがとーございました!」
「いいえどういたしまして」
伯父さんも丁寧に答えてくれた。
「ママ、ピカピカのお金いっぱい入ってたんだよ。ほら」
「ピカピカの?……そう」
母親はきれいな眉をぴくっと動かした。
「それからねえ、パパももらったよ」
「へえ、パパももらったの。いいなあ、ママも欲しいなあ」
聡子はにっこりと兄に微笑みかけた。だが錦之助はとぼけて、
「聡子、藤原さんが楽の切符2枚追加だそうだ。至急送っといてくれないか」
と話をそらした。
「私もいま忙しくて……自分で送れば?」
「そんなこと言わずにさあ。お前しか頼む人いねえんだよ」
「お兄さまも早く結婚すればいいじゃないの。奥様だったら何でもやってくれるわよ。私だって夫も子供もいるんだからいつまでもお兄さまの面倒見てられないの。ママもあのとおり事務所が忙しいし」
「こんな小姑がいるんじゃ、誰も嫁に来てくれねえよ」
「よく言うわ」
健介は首をかしげた。伯父さんが結婚? そんなのおかしいよ、と小さな頭が反論する。
「おじちゃま、パパと結婚してるんじゃないの?」
一瞬、座がシーンとしずまりかえった。
真っ先に口を開いたのは隠岐だ。
「パパは、ママと結婚してるやろ? せやからおじちゃまとは結婚してへんの」
「ふうーん」
健介は納得のいかないような顔をした。だっていつもお芝居でおじちゃまの隣にいて"にょうぼう"をやっているのはパパなんだから。……しかし、その疑問を考えるひまもなく、健介は新しいすてきな思いつきに心をうばわれてしまった。
「あっ、ぼく、おじいちゃまのところ行かなきゃ。ばいばい、おじちゃま」
小さな黒い台風があっという間にのれんをくぐって見えなくなってしまったあと、両親と伯父は、助かった……とため息をついたのだった。
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