芝居茶屋でのはじめての"お見合い"から2週間後―――。
二十四歳の松嶋錦四郎と十七歳の菱川涼之助の関係にはまったく進展がなかった。
稽古期間中、錦四郎のほうは涼之助のほっそりした浴衣姿に理性をぐらつかせていたのだが、涼之助は初めての主役であるせいかそんな錦四郎の態度にも気づかず一心不乱に役作りに没頭していた。
そして、めずらしく銀座に雪が積もった二月一日、『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』初日の幕が開いた。
「まあそんなに緊張するこたぁねえよ。雪のせいで客も少ねえし。天下の蓬莱屋がついてるんだから大船に乗った気持ちでやんな」
錦四郎は、早朝楽屋に挨拶にきた涼之助の肩を威勢良くぽんとたたいた。何が天下の蓬莱屋だ…と涼之助がひそかに鼻白んでいることなど、おかまいなしである。紺地に白のこまかい格子柄の浴衣は涼之助を年相応の若さに見せていて、錦四郎は心の中で可愛いなあとにやけた。
「よろしくお願いします」
涼之助は少しも心のこもっていないお辞儀をすると、長居は無用とばかりさっさと出て行ってしまった。
「おい、ちょっと待てよ!」
せっかく向こうから来てくれた機会を逃したくない一心で、錦四郎はスリッパをつっかけ、涼之助を追った。
そのとき、ただならぬ光景が目に入った。
錦四郎も何度か遊びに連れて行ってもらったことのある、女好きで有名な幹部役者が、折りたたんだ小さな白い紙を涼之助の袖の中にさりげなく落としたのである。涼之助は物陰へ寄ってその紙を開き、さっと目を通すと、帯の中にしまって舞台裏の方へ歩き出した。
錦四郎はなんとなく用があるふりをしながらそのあとをつけた。涼之助は女形特有の内股の歩き方で薄暗い舞台の下手の袖に入っていく。
舞踊『藤娘』で使われる大道具の松の幹の陰には、錦四郎の想像どおり、あの女たらしの幹部役者が待っていた。涼之助は小走りに彼に駆け寄ってなにやらひそひそ話をしている。幹部の左手が微妙に涼之助の体をさわっているのを見て、錦四郎は身の毛のよだつ思いがした。売春の商談だということくらい聞こえなくてもわかる。 錦四郎は無性に腹が立って、とうとう我慢できずに二人の前に出ていってしまった。
「お二人さん、こんなところに隠れて何のお話ですか」
幹部役者は一瞬どきっとしたようだったが、さすがに場慣れしていて、すぐに不敵な笑みをうかべた。
「見ればわかるだろう。靖之君」
「今夜はどっちが先に湯を使うかってことですか?」
このせりふには涼之助が怒った。
「蓬莱屋さん、野暮でござんすよ」
「野暮はそっちのおじさんだろ。今夜は俺が先客なんだ」
錦四郎は思いきって涼之助の肩を片手でぐいと引き寄せ、自分の後ろにかばった。
「なんだって?」
太った中年役者はどんぐりまなこをぱちぱちさせた。それは初耳に違いない、錦四郎がたった今言い出したことなのだから。
「あいにくですけど、涼之助は今夜から俺の家でお泊まりなんですよ。ほら、俺たち今月は梅川忠兵衛だし、仲良くしないと。な?」
錦四郎は自分の影にかくれている涼之助を振り向いて念をおした。
上手く行く自信はあった。楽屋から出るとき「待てよ」と声をかけたのに涼之助が気づいていないはずはないし、おそらく、錦四郎がメモの受け渡しを目撃したことも、後をつけていることも知っていながらここに来たのだろう。ということは、こういう展開になることまで計算済みに違いない。涼之助が幹部役者から若い錦四郎にどうして乗り換えたのかは不明だが、錦四郎にとってはこの際理由などどうでもよかった。
思ったとおり、涼之助はうつむきながらかぼそい声で言った。
「ごめんなさいこの人が強引だから断りきれなくて……兄さん、また今度ね」
「すいませんね」
錦四郎は気合を入れて涼之助の肩に腕を回し、あっけにとられている幹部役者を尻目に涼之助とべったり抱き合いながら舞台袖を出た。
ひきずられるような格好になった涼之助は、幹部役者の目の届かない場所まで来るや、
「何するの。痛いじゃない」
と錦四郎の腕を振り払った。
「ごめんごめん」
頭をかきつつ、錦四郎はニヤリと笑った。なりゆきとはいえ、恋人どうしのふりができたのだ。見ているだけだと血が通っているかどうかもわからない冷たい雰囲気の美少年は、この腕に抱きしめてみるとやはり温かい人間だった。
「お前、こないだ茶屋で“噂は信じるな”とか言っといて、本当じゃねえか」
「だったらどうなのよ」
「許せねえ」
廊下を通る人々がちらちらと二人を見るのに気づき、
「ちょっと俺の部屋に来い」
錦四郎はいやな顔をする涼之助を無理やり引っ張って、楽屋に連れ込んだ。
「座んな。まあ茶くらい飲んでけよ」
涼之助はポンと出された座布団を無視して立ち去ろうとした。錦四郎はあわてて叫んだ。
「おい!さっき見たこと言いふらすぞ!」
涼之助は怒るというより暗い哀しそうな表情をしてきびすを返した。黙ってぺたりと畳に座る。
錦四郎は自分で二人分の茶をいれて、ざらめのせんべいがのった菓子盆を出し、涼之助の向かいに腰を下ろした。
「ご開帳」
「おっと失礼」
大胆なかまわぬ模様の浴衣の裾を申し訳程度にかきあわせる。
「さっきの話だけど、俺は許せねえよ」
「嘘ついたから?」
「いや。……お前、常識ってもんがねえのか? 何が目的だか知らねえけど、体売るのはダメだろ」
「どうして」
「どうしてって……」
錦四郎はその根拠をひとつしか思いつかなくて焦った。
「お前は、俺のもんだからさ」
涼之助は飲みかけていたお茶を吹き出した。
「何で私があなたのものなの」
「なんでなんでって聞くなよ。決まってんだよ最初からそういうのは」
錦四郎は照れ隠しにざらめつきのせんべいを健康な歯でばりっとかじる。
涼之助は、あきれてものも言えないという感じで黙った。気まずい沈黙にせんべいを噛み砕く音だけがしばらく続く。
錦四郎は茶を一口飲み、ようやく話をつなげた。
「お前、あのおっさん嫌いなんだろ」
「そうでもない……好きなほう。やさしいし」
「じゃ、なんでさっき俺のハッタリに乗ったんだ? ブリッ子演技までして」
「今日はちょっと……」
「他のオヤジとかち合っちまったとか」
「そうじゃないけど」
口ごもる涼之助の態度に、錦四郎はどうしてもわけを聞き出したくなった。
「じゃあどうしてだよ」
「言いたくない」
「言わねえとバラすぞ」
涼之助は大きな溜息をついた。高校生のくせに、こういう溜息が妙に色っぽい。本人は意識していないのだろうが。
「……最近ちょっと具合が悪いの」
「体か? 病気なのか?」
「生まれつき心臓が弱くて、でも発作はそんなにたびたび起こるもんじゃないから……」
錦四郎は思わず体を移動させ涼之助の側に膝をついて顔をのぞきこんだ。
「おい、そりゃ、大変じゃねえか。舞台なんか出て大丈夫なのか? 無理しねえほうがいいぞ」
「だから言いたくないって言ったのに……大丈夫、初日でどきどきしてるだけだから、終われば元に戻ると思う」
錦四郎は男らしい眉根を寄せて難しい顔をした。
「やっぱりお前、今日、俺が買うわ」
「え……?」
「いや今月は貸し切りだ」
いぶかしそうに見上げる涼之助に、錦四郎は正面きって尋ねた。
「一晩いくらだ?」
涼之助はおずおずと細い指を一本立てた。一万円のはずはない。十万円だろう。まさか百万ということはないと思うが……錦四郎の頭の中でいそがしくそろばんがはじかれ、ついにはオーバーヒートして、ええいどうでもいいや、という結論が出た。
「一ヵ月分キャッシュで払う。今日から俺の家に泊まれ」
「いやよ」
「どうして」
「疲れそうだもの」
「何言ってんだ、俺はすごーく気を使う男なんだぞ。親父さんには俺から言っとくから心配すんな」
すると涼之助は意外にも強い調子で反発した。
「勝手に決めないでよ。私にだって選ぶ権利はあるでしょう」
「なんだと?」
自信家の錦四郎は少しムッとしたが、涼之助を守りたいと思う気持ちがすぐそれを打ち消した。
「家にいるとまたあいつから電話かかって来るんだろ」
涼之助はうなずいた。
「でも大丈夫、断れば……」
「電話かかってくんの、あいつだけじゃないだろ。断れないようなやつからもかかってくるんじゃねえのか」
鋭いつっこみに、涼之助はうつむいて押し黙った。そのとおりなのだろう。
「あんまり俺を馬鹿にしないで、もっと頼れよ。いちおう蓬莱屋の若旦那なんだからさ。……あ、もうこんな時間だ。そろそろ支度にかかったほうがいいぜ」
「本当だ」
壁の時計を見ると、開演まであと三十分ほどに迫っている。
「ハネたら俺の車で待ってる。赤のポルシェ」
涼之助は、ごちそうさまでした、と言っただけで出て行った。
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