木母寺(隅田川旧跡・梅若塚)
宗旨・ 天台宗
ご本尊・慈恵大師
山号・ 梅柳山
院号・
隅田院、別に梅若寺(うめわかでら)と古称す
創建・ 平安時代の貞元2年(977)
開山・ 忠円阿闍梨
由緒・
能「隅田川」の梅若山王権現の霊験譚にもとずく
梅若塚(梅若山王権現堂)の由来
境内に鎮座する梅若塚は、謡曲などによって、広く知られている旧跡です。当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」は、次のような説話を伝えております。
「梅若丸は、吉田少将惟房(これふさ)卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。
旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年(976)3月15日なり。いまはの際に和歌を詠ず。
| 尋ね来て 問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと |
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまこの地に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来り、柳下に人々の群れ居り称名してありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜明けて後、阿闍梨に、ありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其霊を弔いける、と。」
寺の歴史
| 年号 | 西暦 | 事柄 |
| 貞元 元年 | 976年:平安中期 | 僧忠円によって梅若丸の墓所が築かれ、翌年にいたり、その側に念仏堂が建立されたと いう。(梅若寺の起源) |
| 文治 5年 | 1189年:鎌倉初期 | 源頼朝が奥州遠征の途中に参拝したと伝えられる |
| 長禄 3年 | 1459年:室町中期 | 太田道灌が参拝し梅若塚を改修したといい伝えられている |
| 文明17年 | 1485年:室町中期 | 京都五山の僧で詩文のたくみな万里が、ここを訪れたことが彼の詩集『梅花憮尽蔵』に述 べられている。これは梅若塚を記したものとして、現存する最古の文献である。また翌18 年には、准三后(じゅんさんこう)の位にあった僧の道興もここを訪れたことが彼の紀行文 『廻国雑記』に出ている。 |
| 天正18年 | 1590年:桃山期 | 徳川家康が参拝し、梅柳山という山号を贈られる |
| 慶長 6年 | 1601年:江戸初期 | 徳川氏より5石の寺領を給せられる。ついで寛文10年(1670年:家綱の時代)さらに20 石を加増される。 |
| 慶長12年 | 1607年 | 前関白の近衛信尹が参拝する。この時、木母寺と改名される。 |
| 寛永 年間 | 17世紀中期 | 家光の時代:当寺の境内に隅田川御殿が建てられ、将軍その他の貴人がしばしば来寺 する。 |
| 延宝 7年 | 1679年 | 家綱の時代:上州高崎城主の安藤重治によって絵巻物『梅若権現御縁起』3巻が寄進さ れる(現存、寺宝) |
| 宝永 2年 | 1705年 | 綱吉の時代:堂舎配置のようすが石川流宣の『江戸案内巡見図鑑』に詳しく示される。 |
| 元禄〜享保年間18世紀前半 | 梅若伝説に取材した一連の文芸作品『隅田川物』の最盛期となる。当寺は、この頃、 貴人の寺から次第に庶民の寺となり、広く世人に親しまれるようになる。 |
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| 明治 元年 | 1868年 | 維新と共に幕府の保護を失い廃寺となり、寺の堂舎は取り除かれて跡地には梅若神社が 創建される。 |
| 明治21年 | 1888年 | 仏寺復帰の願いが僧の光円によって実現され、木母寺の再興がなし遂げられる。翌22年、 梅若神社が旧に復して梅若堂となる。神社を再び仏寺とすることは、当時としては非常に 困難な事業であり、当寺では、これを明治中興と称している。 |
| 大正 9年 | 1920年 | 東京府によって梅若塚は史跡の指定を受ける(。後、東京都旧跡) |
| 昭和20年 | 1945年 | 4月13日、米軍機の空襲を受けて本堂など焼失する。また戦火を免れた唯一の仏堂であ る梅若堂も4月15日の再度の空爆により損傷を受ける。 |
| 昭和25年 | 1950年 | もとの位置に仮本堂を建立する。昭和27年には梅若堂を改修し、梅若権現忌(梅若祭)が 復活し今日に至る。なお、梅若忌は明治中興後は新暦4月15日に執行される。 |
| 昭和51年 | 1976年 | 都市開発法に基づく防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転する。この年 『梅若保存会』が結成される。 |
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